(8)ユンホ先輩

 

入社4年目のことだ。

 

当時の僕の目にはまだ、営業成績ナンバーワンのユンホ先輩の裏の努力を知らずにいた。

 

身の回りに必ず1人はいる、オンオフの差が大きく、省エネモードが常の者として映っていた。

 

資料まとめに精を出していた午後2時。

 

「ジュースを飲みに行こう。

喉が渇いた」

 

背後からユンホ先輩の声が降ってきた。

 

数十秒前から背中に視線を感じていたけれど、わざと無視をしていた。

 

資料完成までタイムリミット1時間を切っており、ユンホ先輩の相手が出来る余裕はなかったからだ。

 

「お断りします。

昼休みから1時間も経っていないんですよ?

僕は忙しいのです。

ひとりでコーラを飲んできてください」

 

「びしっと断ることができた」と、誇らしく思っていたら...。

 

「わっ!」

 

強引なユンホ先輩は、僕が座るオフィスチェアの背もたれをつかむと、ごろごろと事務所の外へと押していくんだ。

 

「ちょっ...待って!」

 

「待たない。

かっかしながらの仕事は、いい結果を生まないぞ」

 

「落ちる...!」

 

「キャスターがぶっ壊れるのでは?」と不安になるスピードで、僕は振り落とされないよう椅子の座面をつかんでいた。

 

僕を乗せたオフィスチェアは廊下を疾走していった。

 

 

「チャンミンは何がいい?」

 

「アイスコーヒーのブラックをお願いします」

 

自販機前で飲み物を選ぶユンホ先輩。

 

手元から滑り落ちた2本のペットボトル。

 

長椅子の下に転がるそれを追う手が、それをキャッチした手とぶつかった。

 

ベタなシーン。

 

初めてユンホ先輩の身体に触れた時だったと思う。

 

4年間も共に働いてきて、指先ひとつ触れ合わずにきたことに驚いた。

 

僕が意識的に「触れたらいけない」と、接触しそうになるのを避け続けていたのだろうか。

 

ユンホ先輩に抱く感情の濃度が、他者とは違うことに気付いた瞬間だった。

 

あんな問題児と恋愛ができるとは、とても想像がつかなかった。

 

ユンホ先輩の恋人は振り回されて苦労していそうだ。

 

後輩である僕でさえ、呆れっぱなしなのに。

 

でも...もし恋人がいるとしたら...どんな人なんだろう、と興味が湧いた。

 

その頃だったのかな。

 

ユンホ先輩の首筋や肩、腰やお尻に普通じゃない視線を向けてしまうようになったのは。

 

渋々ながら、ユンホ先輩の昼食の誘いに内心ウキウキとしていた。

 

「ユンホ先輩。

今日はパスタにしません?

美味しいカルボナーラを出すお店がオープンしたそうですよ?」

 

「俺は行きたくない。

俺はラーメンの気分なんだ。

カルボナーラが食いたければ一人で行ってこい。

じゃあな」

 

「わっ!

僕もラーメンにします!」

 

立ち去るユンホ先輩を追いかけることもあったなぁ。

 

「明日、カルボナーラを食いに行こうか?」

 

「...明日は休みですよ」

 

気に召さない提案の時はばっさり断る遠慮のなさは、ユンホ先輩相手だと僕も同様だった。

 

ユンホ先輩の前では、僕は正直者になれてると思う。

 

それなのに、入社6年目の夏。

 

ユンホ先輩が差し出してくれた秘密...むき出しの心を、丁重に押し返してしまったのだ。

 

僕は職場の後輩に過ぎないのに、仕事の範囲を超えたところまで踏み込んでしまっていいのか?と躊躇してしまったんだ。

 

尊敬したり呆れたり、綺麗な横顔に憧れているだけがちょうどよいのでは?と、変化を恐れていたんだ。

 

けれども、あの日以降のユンホ先輩は、「僕を頼ってください」の言葉通り、僕の肩に触れる程度の控え目さで、僕を頼ってくれた。

 

たった1年半の間のことだったけれど。

 

嬉しかったなぁ。

 

 

ユンホ先輩が3か月ほど休職したことがあったことを思い出した。

 

海外へ放浪の旅に出かけたのでは?

 

入社3年目の僕は、他部署の者たちの噂話を信じ、なんと社会人失格な人物なんだろうと呆れていた。

 

それは僕の心の中で温かに膨らむ感情を、抑え込むストッパーとして働いてくれた。

 

ユンホ先輩のアパートを初めて訪れた夏のあの日にやっと、休職した理由が分かった。

 

放浪の旅どころか、3か月入院していたのだ。

 

部長も課長も人事部も承知のことで、僕らの部署では事情を知らないのは主任と僕の2人だけだった。

 

個人情報を一切漏らさないその徹底ぶりに、案外いい会社だなぁと感心したのだ。

 

 

(つづく)

 

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