入社4年目のことだ。
当時の僕の目にはまだ、営業成績ナンバーワンのユンホ先輩の裏の努力を知らずにいた。
身の回りに必ず1人はいる、オンオフの差が大きく、省エネモードが常の者として映っていた。
資料まとめに精を出していた午後2時。
「ジュースを飲みに行こう。
喉が渇いた」
背後からユンホ先輩の声が降ってきた。
数十秒前から背中に視線を感じていたけれど、わざと無視をしていた。
資料完成までタイムリミット1時間を切っており、ユンホ先輩の相手が出来る余裕はなかったからだ。
「お断りします。
昼休みから1時間も経っていないんですよ?
僕は忙しいのです。
ひとりでコーラを飲んできてください」
「びしっと断ることができた」と、誇らしく思っていたら...。
「わっ!」
強引なユンホ先輩は、僕が座るオフィスチェアの背もたれをつかむと、ごろごろと事務所の外へと押していくんだ。
「ちょっ...待って!」
「待たない。
かっかしながらの仕事は、いい結果を生まないぞ」
「落ちる...!」
「キャスターがぶっ壊れるのでは?」と不安になるスピードで、僕は振り落とされないよう椅子の座面をつかんでいた。
僕を乗せたオフィスチェアは廊下を疾走していった。
・
「チャンミンは何がいい?」
「アイスコーヒーのブラックをお願いします」
自販機前で飲み物を選ぶユンホ先輩。
手元から滑り落ちた2本のペットボトル。
長椅子の下に転がるそれを追う手が、それをキャッチした手とぶつかった。
ベタなシーン。
初めてユンホ先輩の身体に触れた時だったと思う。
4年間も共に働いてきて、指先ひとつ触れ合わずにきたことに驚いた。
僕が意識的に「触れたらいけない」と、接触しそうになるのを避け続けていたのだろうか。
ユンホ先輩に抱く感情の濃度が、他者とは違うことに気付いた瞬間だった。
あんな問題児と恋愛ができるとは、とても想像がつかなかった。
ユンホ先輩の恋人は振り回されて苦労していそうだ。
後輩である僕でさえ、呆れっぱなしなのに。
でも...もし恋人がいるとしたら...どんな人なんだろう、と興味が湧いた。
その頃だったのかな。
ユンホ先輩の首筋や肩、腰やお尻に普通じゃない視線を向けてしまうようになったのは。
渋々ながら、ユンホ先輩の昼食の誘いに内心ウキウキとしていた。
「ユンホ先輩。
今日はパスタにしません?
美味しいカルボナーラを出すお店がオープンしたそうですよ?」
「俺は行きたくない。
俺はラーメンの気分なんだ。
カルボナーラが食いたければ一人で行ってこい。
じゃあな」
「わっ!
僕もラーメンにします!」
立ち去るユンホ先輩を追いかけることもあったなぁ。
「明日、カルボナーラを食いに行こうか?」
「...明日は休みですよ」
気に召さない提案の時はばっさり断る遠慮のなさは、ユンホ先輩相手だと僕も同様だった。
ユンホ先輩の前では、僕は正直者になれてると思う。
それなのに、入社6年目の夏。
ユンホ先輩が差し出してくれた秘密...むき出しの心を、丁重に押し返してしまったのだ。
僕は職場の後輩に過ぎないのに、仕事の範囲を超えたところまで踏み込んでしまっていいのか?と躊躇してしまったんだ。
尊敬したり呆れたり、綺麗な横顔に憧れているだけがちょうどよいのでは?と、変化を恐れていたんだ。
けれども、あの日以降のユンホ先輩は、「僕を頼ってください」の言葉通り、僕の肩に触れる程度の控え目さで、僕を頼ってくれた。
たった1年半の間のことだったけれど。
嬉しかったなぁ。
・
ユンホ先輩が3か月ほど休職したことがあったことを思い出した。
海外へ放浪の旅に出かけたのでは?
入社3年目の僕は、他部署の者たちの噂話を信じ、なんと社会人失格な人物なんだろうと呆れていた。
それは僕の心の中で温かに膨らむ感情を、抑え込むストッパーとして働いてくれた。
ユンホ先輩のアパートを初めて訪れた夏のあの日にやっと、休職した理由が分かった。
放浪の旅どころか、3か月入院していたのだ。
部長も課長も人事部も承知のことで、僕らの部署では事情を知らないのは主任と僕の2人だけだった。
個人情報を一切漏らさないその徹底ぶりに、案外いい会社だなぁと感心したのだ。
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]