【29】NO?-僕への交換条件ー

 

~チャンミン~

 

携帯電話のディスプレイを何度も確かめていた。

 

落ち着かなくて、立ったり座ったり、冷蔵庫の扉を開けたり閉めたり、飲みたくもない珈琲を淹れたり。

 

これまで3回電話をかけたが、マナーモードにしてあるのか民ちゃんは電話に出ない。

 

今朝、出勤前の玄関先で、「今夜は帰りが遅くなります」と民ちゃんは言っていた。

 

昨日に引き続き、民ちゃんの態度がどこなくそっけなかったような気がした。

 

だから余計に僕は心配だった。

 

「未成年じゃあるまいし。

弟くんは夜遊びしているだけだって」

 

民ちゃんのことを男だと勘違いしているリアが、投げやりに言う。

 

夜遊び、の言葉に僕の心がヒヤリとした。

 

今夜はカットモデルのバイトはないはずだ。

 

友達と遊びに行っているのだろうか?

 

それとも...『例の彼』と...?

 

 

「チャンミン...。

弟くんの心配もいいけど、もっと心配しなくちゃいけないことがあるんじゃないの?」

 

騒々しい音を立てていたTVを消すと、リアは怖い目をして僕を見た。

 

「私たちのこと...まだ気持ちは変わらないの?」

 

「...変わっていない」

 

僕はゆっくりと首を振った。

 

「私は...別れたくない」

 

「リア...」

 

「チャンミンに捨てられたら、私はどうすればいいのよ?

この部屋を出て行かなくちゃならなくなるのよ。

モデルの仕事なんて...この半年間はほとんど無かったのよ。

知らなかったでしょう?」

 

「え...!」

 

驚いた。

 

「忙しい忙しいって...帰りも遅かったよな?」

 

「呑気な人ね。

モデルの仕事がなくなったら、どこで稼いでると思う?

夜の仕事に決まっているじゃない!」

 

「......」

 

モデルのことも夜の仕事のことも、初耳だった僕は絶句した。

 

「初めて聞く話でしょう?

驚いたでしょう?

毎晩帰りが遅い理由を聞かなかったチャンミンが悪いのよ」

 

「夜の仕事っていうと...ホステスとか、キャバ嬢のことか?」

 

「そうでもしないと、生活費はどうするのよ?」

 

「どうしてもっと早く教えてくれなかったんだ?

相談にのってやれたし、違う部屋に引っ越すことだってできたんだぞ?」

 

「モデルの仕事が少なくなったなんて言えるわけないじゃないの。

チャンミンは『モデルのリア』が好きなんでしょ?

理想を壊したくなかったのよ」

 

「リア...」

 

リアは話したいことしか話さない。

 

僕が質問したとしても、詮索していると捉えて機嫌を悪くする。

 

仕事の後、遊びにでも行っているのだろうと思い込んでいた。

 

好き勝手に暮らしているのだと、リアに嫌気がさしていた自分が恥ずかしくなってきた。

 

リアにはリアの事情があったのだ。

 

不満があったのならそれを言葉で伝えたり、帰りの遅い理由を問いたださなかった僕が悪かった。

 

リアの言う通り、僕は『モデルのリア』に惚れた。

 

でもそれは好きになったきっかけに過ぎず、僕が求めていたのは「好きな人と共に過ごす時間」と互いを想い合う感情だ。

 

楽しく笑い合うだけじゃなく、衝突し合ったり、胸を痛めることもあったりして、共に経験する時間が欲しかった。

 

僕をほったらかしにしているくせに、携帯電話を盗み見るリアが嫌だった。

 

「じゃあ、泊りで何日もいなかった時は?

その時は、撮影だったのか?」

 

リアの表情が一瞬強張った。

 

「今さら、あれこれ聞くのはやめてよ。

私のことなんか興味なかったくせに!」

 

「そんなこと...」

 

「なくはない」と思った。

 

リアの不在に不貞腐れているうち、不在が当たり前になってきて、稀にリアが部屋にいる日があると、くつろげず緊張している自分がいた。

 

「チャンミンは...こんな私を...捨てるの?」

 

「そんな言い方はよせよ」

 

リアの口が歪み、大きな目に涙が膨らんでいる。

 

また泣かせてしまった。

 

「私のことが嫌いになったの?」

 

「嫌いになったわけじゃない」

 

「じゃあどうして、別れたいのよ?」

 

「君と恋人関係を続けるのに疲れたんだ」

 

僕の目にも涙が浮かんできた。

 

交際期間たった1年で僕は根を上げた。

 

「早く帰るから。

料理もするし、デートもする。

チャンミンの好きなことを一緒にするから。

チャンミンのファッションに口出ししないし...そうだ!

旅行しようよ。

今まで行ったことなかったでしょう?

私、変わるから!」

 

僕の腕をぎゅっとつかんだリアが、僕を見上げている。

 

リアの必死な姿は初めて見る。

 

「もう遅いよ」

 

僕はゆっくりと首を横に振った。

 

「大嘘つき!

私のことを好きだの、最高だの言ってたくせに!」

 

「ごめん」

 

当時の気持ちは本物だったと断言できる。

 

「分かった!

他に好きな女がいるんでしょ!」

 

 

瞬時に民ちゃんの顔が浮かんだ。

 

 

パチンと音がして、頬がカッと熱くなった。

 

僕の表情のわずかな変化を見て取ったリアが、僕に平手打ちをしたのだ。

 

「最低!

あなたはクズよ!

最低!

浮気者!」

 

リアの振り回す腕が、僕の顔や頭を打ち付ける。

 

「まるで私だけが悪いみたいに責めるなんて卑怯者!

好きな女がいるのなら、はっきりそう言えばいいじゃないの!」

 

リアの言う通りだったから、僕は叩かれるままでいたけれど、さすがに...痛い。

 

リアの手首を持って動きを封じたら、リアは崩れるように床に座り込んでしまった。

 

「どんな子?」

 

「床に座ってないで、起きて」

 

「私の知っている子?」

 

僕はリアの質問に答えず、彼女の手を引っ張って立ち上がらせようとした。

 

と、リアが僕の首にかじりついてきた。

 

リアの肩を抱くべきか、リアの腕を振りほどくべきか、僕は悩んでいた。

 

 


 

 

僕は「好きな女がいるんでしょ?」の台詞で、視界が開けたような気がしたんだ。

 

リアには悪いけれど。

 

リアとの関係を清算しようと決意した理由。

 

リアとの生活がむなしくて、リアへの興味が薄れてしまったのは常日頃感じていたことで、「別れた方がいいのでは?」の気持ちは湧いては打ち消していた。

 

気持ちを打ち消していた理由は、変化を恐れていたこと。

 

過去に交際してきた女性たちとの間で経験した、辛かった時期を思い起こす。

 

関係を清算する際に発生する事柄...例えば、

 

別れ話中のすったもんだ、引っ越し手続きと持ち物の線引き、友人たちへの説明...そして、心を襲う寂しく悲しい想い。

 

僕はリアの反応が怖かった。

 

そんな中、優柔不断な僕の前にあの子が現れた。

 

その日の夜に、僕はリアとの別れを決意した。

 

好きな人ができたから、リアと別れようと決意したんだった。

 

僕の気持ちが、ここで初めて明確になったのだった。

 

 


 

 

「別れる前に、ひとつだけお願いを聞いてくれる?」

 

「いいよ」

 

リアと別れられるのなら、何でもしてやろうと思った。

 

最後のお願いを叶えてやろうと思った。

 

この時の僕のずるい考えが、その後、物事を複雑にしてしまったのだ。

 

 


 

~リア~

 

 

チャンミンに罪悪感を植え付けようと訴えたのに、通じなかった。

 

チャンミンは本気なんだ。

 

私のプライドはズタズタだった。

 

許せない。

 

本当に許せない

 

モデルの仕事が激減した今は、この部屋を私一人で維持はできない。

 

ここを出なくちゃいけなくなるのは困る。

 

あの人のところへ転がり込もうか?

 

捨て身でいけば何とかなるかもしれない。

 

チャンミンの方も、良心と罪悪感をもっと刺激してやれば、折れるかもしれない。

 

チャンミンが私から離れられないように、引き留める何かとは...?

 

 

これしか、ない。

 

抱き着いたチャンミンの耳元に囁いた。

 

 

「最後に1回だけ私を抱いて」

 

「え!?」

 

私の背中に回ったチャンミンの腕がビクリとした。

 

私の流す涙がチャンミンの肩に落ちる。

 

あなたのせいで泣いているのよ、って。

 

自分が可哀そう過ぎて、いくらでも泣けそうだった。

 

「1度だけ抱いてくれたら、チャンミンと別れてあげる」

 

「......」

 

「私のことを可哀そうだと思って...最後に...」

 

「...できない」

 

「チャンミンに断られたら、私...っく...っく...。

女としての自信を失っちゃう...」

 

「リアは自信を持っていいんだよ」

 

あと少しだ。

 

チャンミンの肩にもたせかけていた頭を起こし、間近から彼の顔を見る。

 

チャンミンも泣いているじゃない。

 

それにしたって...整った顔をしている。

 

私がチャンミンと付き合ったのは、チャンミンの顔とスタイルが理由なんだもの。

 

滅多にいない「いい男」だったから。

 

チャンミンには内緒。

 

私が「浮気」をしていることも、内緒。

 

 

もっと近づいて、チャンミンに口づける。

 

チャンミンは、唇を堅く引き結んだままだ。

 

「私とはキスもしたくないのね。

もう私は終わりなんだわ!

生きている価値なんてないんだわ!」

 

「リア!

落ち着けって!」

 

ごうごうと泣きわめく私を、チャンミンはきつく抱きしめる。

 

あと少し。

 

「死んでやる!

チャンミンと別れるくらいなら、私...死んでやるから!」

 

「リア!!」

 

この後の展開にふさわしい策がひらめいた。

 

 

チャンミンの腕の中から抜け出して、キッチンカウンター上のラックから包丁を抜く。

 

「リア!

よせ!」

 

私の手から包丁をもぎとろうとチャンミンが手を伸ばすから、刃先を自分の方に向ける。

 

「死んでやる!

全部チャンミンのせいよ!」

 

死ぬ気なんて、さらさらなかった。

 

隙を狙ったチャンミンが、私を羽交い絞めにする。

 

チャンミンは私の指を1本1本はがすようにして包丁を取り上げて、カウンター上に置いた。

 

「分かった、分かったから」

 

背後からきつく私を抱きしめた。

 

 

「死ぬとか、終わりとか、よしてくれ」

 

抱きしめられた私は、振り向いて片手をチャンミンの頬に添えた。

 

充血した目で、苦しそうな顔をしている。

 

そうよ。

 

チャンミンが悪いのよ。

 

抵抗しないことに心中ほくそ笑んだ私は、チャンミンと深いキスを交わしたのだった。

 

 

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