【50】NO?-僕らはそれぞれに2-

 

民は眠れずにいた。

 

深夜、看護師が点滴の交換に来たときは、眠っているふりをした。

 

頭の中がもんもんとしていたのは、うずくように痛み続ける怪我のせいだけじゃないことが分かっていた。

 

チャンミンの言動が理解不可能で、ここまで一人の男性と密接に関わったことのない民にとって、荷が重すぎる状況だったのだ。

 

 

(チャンミンさんはどういうつもりだったんだろう。

 

もし...本当に私が健忘症だったとしても、いずれはバレてしまうような嘘をつくなんて。

 

ショック療法、のつもりかな。

 

そうだとしても、『彼氏だよ』だなんて...発想が凄すぎる。

 

さらに...さらにですよ!

 

彼氏のフリをしていたんですよ。

 

ぷっ...チャンミンさんって、面白いひとだ。

 

ぷっ、チャンミンさんはやっぱり、マジメ一徹な人だ。

 

突っ込んで質問したら、一生懸命に考えているんだもの)

 

民の頭に、チャンミンと裸で抱き合うシーンがぼわーんと浮かぶ。

 

(こら!

何を想像してるの!

チャンミンさんをそういう対象で見たら駄目でしょう!

そんなんじゃないのに...。

そういう関係じゃないのに...)

 

寝ていられなくなった民は、むくりと身体を起こした。

 

ずきっと後頭部が痛んで一瞬、顔をしかめ、ベッドから足を下ろす。

 

薄闇の元、冷たいリノリウムの床についた白い裸足に、「なんて大きな足なんだろう」と思う。

 

(チャンミンさんとの『恋人ごっこ』は楽しかった。

 

リアルに想像してしまった。

 

もし...。

 

もし、チャンミンさんが私の彼氏だったら、あんな感じなんだろうなぁ)

 

民の胸は甘くしびれた。

 

(『忘れているふり』をしていたことがバレてしまった。

 

ついでに、騙されているフリをしていたこともバレてしまった。

 

恥ずかしい...)

 

薄暗い病室の窓からの景色、深夜過ぎでも灯り続けるビルの窓明かり、規則正しく並ぶ高速道路の道路照明。

 

(チャンミンさん。

どうして『彼氏』のふりをしたの?

 

リアさんがいるんでしょ?

 

私は単純ですぐにその気になっちゃう人間だってこと、知ってますよね。

 

チャンミンさんといると、嬉しい気持ちと嬉しくない気持ちが同時に存在して、それが私を混乱させる。

 

チャンミンさんの気持ちが分からない。

 

私の気持ちも、分からない。

 

ううん、違う。

 

なんとなく分かっている、本当は)

 

 


 

 

チャンミンも眠れずにいた。

 

電車を乗り継いで帰宅した。

 

タクシーを使ったりしたら、暗く静かな車内で、いらぬ想いが渦巻く一方だったからだ。

 

(とんだ茶番で、大赤面ものだった。

 

民ちゃんったら、記憶喪失のフリをしていただなんて。

 

ぞーっと血の気が引く思いをしたんだぞ。

 

民ちゃんが意識不明の重体なんじゃないかって、そう覚悟して病院に駆けつけたんだから。

 

Tの話をちゃんと聞いていなかった僕も悪いが。

 

そういうつもりでいたから、「あなたは誰ですか?」なんて言われたら、記憶を失ったんじゃないかって、信じるに決まってるじゃないか)

 

チャンミンはベッドを抜け出し、冷蔵庫から出した冷たいミネラルウォーターを一気にあおった。

 

入眠の邪魔をしていた恥ずかしさによる身体の火照りを、冷ましたかったのだ。

 

レンジにぶらさげたミトンに、くすっと微笑する。

 

鼻をぶつけたチャンミンを手当てしようと、民からミトンを渡された出会いの夜のことが思い出されたからだ。

 

レンジの電光表示時計の明かり 冷蔵庫のたてるモーター音、静かで快適な温度に保たれた、広くて贅沢なマンションの一室。

 

近いうちにチャンミンは、この部屋を出る。

 

頭を占めていたリアの妊娠騒ぎは、チャンミンにとってもう、どうでもよくなっていた。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

リアの浮気を知った昨夜以降、彼女とは顔を合わせていない。

 

リアの奴...。

 

体調が優れないのに、一体どこにいるんだ。

 

...浮気相手のところだ、きっと。

 

裏切りを知って、身が切れるほど痛みが襲った。

 

痛みの正体は、哀しみじゃない。

 

間抜け過ぎる自分が情けなかったからなんだ。

 

僕は彼女のどこを見て、何に惚れたのか分からなくなった。

 

多分、僕は見たいものしか見ていなかったんだろう。

 

そんな僕を、リアは早い段階で見抜いていたんだと思う。

 

疑いを持って問いただしたり、もっと側にいてくれと要求したり、僕らの間に波風をたてるような言葉を口にすることを恐れている僕に、リアは気付いていたんだ。

 

腑抜けで盲目な僕を試すかのように、奔放さを発揮させていったのだろう。

 

助長させたのは、僕だ。

 

「民ちゃん...」

 

知らず知らず言葉が漏れる。

 

ずりずりとキッチンカウンターに背中を滑らせて、僕は床に座り込んだ。

 

大理石の冷たい床が、裸足の足裏に心地よい。

 

「僕は...馬鹿か」

 

僕のことを覚えていないことに絶望して、とっさについた嘘。

 

僕に対して記憶がない(実際は『ふり』だったんだけど)まっさらな民ちゃんに、僕の願望を刻みたくなった。

 

信じ込む民ちゃんに、民ちゃんの質問にしどろもどろになりながらも、僕の心は踊った。

 

「ごめん、冗談だよ」って取り消せなくなって、いっそのこと本当のコトにしてしまおうって、本気で思ったくらいだ。

 

...楽しかった。

 

民ちゃんとの『恋人ごっこ』は、本当に楽しかった。

 

もしこれが、現実だったらどんなにいいことか、と切に望んだ。

 

民ちゃんに信じ込ませて、僕の願望を現実にすることができたらって。

 

民ちゃんは単純で素直だから、ころっと騙されるだろうと知っていたんだ。

 

記憶喪失が嘘だったと知って、僕は民ちゃんを見直した。

 

この子は一筋縄じゃいかないぞ。

 

「あの」民ちゃんに、そんな器用なことができるとは想像もしていなかった。

 

なんでまた、あんな嘘を思いついたんだろう。

 

からかうつもりにしては、冗談きついよ、民ちゃん。

 

僕が嘘をついているって知ってて、『恋人のフリ』に合わせるんだから。

 

あーもー、恥ずかしい。

 

やっとのことでひねり出したストーリー...民ちゃんから告白されて付き合うようになって、民ちゃんに誘われて即ベッドインして(しかも昼間)...に、民ちゃんったら目を輝かして突っ込んだ質問を浴びせてくるんだから。

 

それにしても、楽しかった。

 

本当のことだったら、どんなにいいことか...。

 

この台詞を何度も反芻している。

 

 

「待てよ...」

 

現実にすればいいじゃないか!

 

希望の光が見えてきた。

 

悶々していないで、行動に移すべきだ。

 

想いを小出ししていった方がいいかな。

 

それとも、はっきりストレートにぶつけた方がいいかな。

 

「あ...」

 

夢の中の民ちゃんの台詞。

 

「ユンさん...」

 

あれは夢の中だけの話だ。

 

カットコンテストの日、民ちゃんとユンが談笑していた光景があまりにショックだったせいだ。

 

ユンを尊敬のまなざしで見つめる民ちゃん。

 

あれはいただけない。

 

膝に組んだ腕に顔を埋めた。

 

リアのことは、もういい。

 

僕の手に負えないことだ。

 

 


 

 

翌朝。

 

民はチャンミンを待っていた。

 

医師から簡単な診察を受け、薬剤師から処方薬の説明を受け、警察官の質問に答えた。

 

朝食として出されたお粥だけでは物足りず、午前10時の時点で空腹だった。

 

点滴も外れ身軽になり、待ちきれなかった民は兄Tから渡された紙幣を握りしめて、売店に行くことにした。

 

「何にしようかな...」

 

病衣のまま院内をうろついていると、「ホントの入院患者みたい」と、基本的に楽観的な民は軽く浮かれていた。

 

まだ少しふらつくのは、丸1日以上寝たきりだったせいで、後頭部の怪我も急に振り向いたりしなければ痛みはそれほどない。

 

「民ちゃん!」

「わ!」

 

民は手にしかけたチョコレートバーを、陳列棚に戻す。

 

呑気に買い物をしている民の様子に、片手にボストンバッグを下げたチャンミンは安堵する。

 

「お腹が空いたの?」

 

「えーっと...そうです。

ご飯が足りなくて...」

 

「ははっ。

そうだろうね」

 

「どういう意味ですか?」

 

ムッとした時に必ず見せる民の三白眼に、「いつもの民ちゃんだ」とチャンミンは笑う。

 

「どう?

退院できるって?」

 

「はい。

異常なしです」

 

「その...、事故のこと...ショックだろ」

 

昨夜、チャンミンはTに電話を入れ、事故の顛末を聞いた。

 

さぞかし怖い思いをしただろうに、ケロッとしている民のタフさに感心した。

 

(民ちゃんの性格は...僕とは全然違うんだな)と。

 

「酷い奴もいるんだな...。

盗られたものは残念だけど、

民ちゃんが無事で、本当によかった」

 

チャンミンと民は並んで病室に向かう。

 

民の足取りはしっかりしていたが、たまにふらつくこともあって、チャンミンがそっと民の背中に手を添えていた。

 

病衣ごしに民の背骨や体温が伝わってきて、その細いウエストに腕を回したくなる衝動を抑えた。

 

耳の後ろに拭き取りきれなかった血の赤がこびりついていて、痛ましく思った。

 

「あの時は、油断してたんです。

人が全然いない、寂しい道でした」

 

(引ったくりの被害者は大抵、女性や老人だと聞くけど、民ちゃんみたいな子が襲われることもあるんだ...

なんてことは、民ちゃんには言えない)

 

「寂しい道を歩いていたなんて、どうしてなんだ?

うちから1時間以上も離れたところだったんだよ?」

 

「それは...」

 

チャンミンとリアとの緊迫したやり取りを目にして、いたたまれなくなって、あの夜はどこかホテルに宿泊しようとしていたとは、民はチャンミンには言えなかった。

 

加えて、リアがチャンミンの子を宿しているかもしれないことに、酷くショックを受けたことも。

 

二人は昨夜のことなどなかったかのように振舞った。

 

チャンミンは、民に聞かれてしまった話の内容に触れなかった。

 

民も、チャンミンとリアが抱えている問題について、問いたださなかった。

 

それぞれが抱えているモヤモヤを、話題に上げたくなかったのだ。

 

二人とも、昨夜の奇妙な、でも甘いやりとりを引きずりたかった。

 

チャンミンは、昨夜の嘘がきっかけで自身の想いが民にバレたのでは、と恥ずかしかった。

 

民は、記憶喪失のフリをした理由を知られたくなかったし、「彼氏」のフリをしたチャンミンの意図が分からなかった。

 

「えーっと...そう!

着替えを持ってきたよ」

 

「わぁ、ありがとうございます」

 

ボストンバッグのファスナーを開け、民に中身を見せる。

 

「あらら。

おパンツも持って来てくれたんですね。

恥ずかしいです」

 

民の着替えを揃えようとクローゼットの引き出しを開けてみて、民の所有する衣服の少なさにもの悲しくなった。

 

(民ちゃんは節約に節約を重ねてお金を貯めて、都会に出てきたんだった。

空っぽに近い引き出しを見て、自分色に染めたいと思ってしまった。

他の誰かに想いを寄せている民ちゃんだ。

今のうちに、僕の元にとどめておかなければ...)

 

「シャツとボトムスは僕のものだけど...別にいいよね?」

 

「はい。

ありがとうございます。

じゃあ、着がえますね」

 

民の見据えるような視線に気づいて、

 

「ごめん!

じゃあ...僕は、会計してくるよ。

請求書をちょうだい」

 

「そんな...。

悪いですよ。

事故ですから、保険証が使えないんですよ?」

 

「大丈夫。

お金をおろしてきたから」

 

「じゃあ...お言葉に甘えて...。

後日、絶対にお返しします」

 

 

 

会計に手間取っているのか、チャンミンがなかなか戻ってこない。

 

民はベッドに腰掛けて、チャンミンの戻りを待っていた。

 

チャンミンが用意したのは、ブルーのストライプシャツとライトグレーのパンツ、白いスニーカーと、夏らしい爽やかなコーディネイトだった。

 

自身の身なりに満足していたら、

 

「民くん?」

 

間仕切りのカーテンの隙間から覗いた顔に、民は驚嘆した。

 

「ユンさん!」

 

 

 

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