~ユノ34歳~
実際に目で確かめるまでは、信用できない。
X氏の身体を押しのけて、部屋へ押し入った。
「ユンホ君!」
X氏の制止は無視して、真っ先にベッドを確認する。
「!」
ベッドに全裸でうつ伏せで横たわっているチャンミン。
涙や唾液で汚れた顔で、恍惚の表情を浮かべている。
ベッドの枕元や足元には、空き袋や使用済みのものが汚らしく転がっている。
部屋に乱入してきた俺に、目を見開いている...。
・
...そんなシーンを、予想していた。
「え...?」
シーツは乱れているが、ベッドは空っぽだった。
俺は浴室に直行する。
ドアを開けると、湯気に満ちた空気に包まれたそこは、無人だった。
寝室に引き返し、クローゼットの扉を勢いよく開けた。
X氏の上等なスーツが吊るされているだけだった。
それならばと、窓際まで走りカーテンを引いたところで、嵌め殺しの窓だったことを思いだした。
「ユンホ君?」
俺の背後にX氏が立っているのが、窓ガラスに映っている。
「なんだって、チャンミン君が私の部屋にいるなんて。
まるで...」
「まるで...なんです?」
勢いよく振り返った先に、X氏の下卑た笑顔があった。
「ユンホ君が何を考えているか...よ~く分かるよ。
私がチャンミン君を連れ込んで、よからぬことをしている...そうだろう?」
「......」
奥歯を噛みしめて、X氏を睨みつけた。
「...随分失礼なことをしている自覚はあるのかね?
ご自身の立場はよく理解しているのかね?」
「ええ」
今後の仕事を失ってしまっても構わなかった。
依頼されている仕事の大半は、白紙に戻るだろう。
「ご覧の通り」
X氏は大げさな身振りで、部屋を見渡した。
「チャンミン君はここには『いない』」
それじゃあ、チャンミンはどこにいるんだ?
「失礼しました」
俺は頭を下げるしかない。
失礼極まりない行為に、言い訳も謝罪もする気になれなかった。
X氏を疑ったこと、家探しをしたこと、結局疑惑を裏付けるものは見つからなかったこと。
ちらっと視界をかすったあれは?
引き返してあらためてみたかったが、俺を部屋から押し出すように背後にX氏が接近していたため、出来ずにいた。
「尻の軽いネコは檻に閉じ込めておかないと、いけないよ。
『おにいさん』?」
部屋の外までご丁寧に見送ったX氏は、そう言ってドアを閉めた。
「くそっ」
黒だ、と思った。
チャンミンは、どこにいる?
~チャンミン17歳~
頭がガンガンする。
僕はバスタブにうずくまって、降り注ぐシャワーに打たれていた。
立てた膝の間で項垂れていた。
次から次へと溢れる涙が、熱いお湯に洗い流されていく。
「馬鹿!」
膝を引き寄せ背中を丸めて、「馬鹿馬鹿」とつぶやき繰り返した。
振り仰いで、大口を開けて、湯のつぶてで口内を濯ぐ。
『これだからガキは困る』
X氏の言葉がわんわんと耳の奥で、リフレインした。
そうだよ、僕はガキだ。
情けなかった。
こんな僕を知ったら、義兄さんは離れていってしまう。
じっとしていればよかった。
蜂の巣を突いたみたいな事態になってしまった。
今の僕を圧倒するのは、屈辱感と羞恥心だ。
何度もX氏にさらし続けた自分の身体に、反吐が出そうだった。
「義兄さん...」
吐き気はするし、ふわふわと酔った頭なのに、意識だけははっきりしている。
X氏の湿ったあざ笑いと義兄さんの軽快な笑い声が、交互に僕の頭の中をぐるぐる巡って僕を苦しめている。
洗面ボウルの脇に置いたスマホが、先ほどから振動している。
義兄さんだ。
今日一日ずっと連絡を返さなかった僕を心配している。
義兄さんに会いたい...でも、会うのが怖かった。
義兄さんなら僕を見損なったりしない...その自信もわずか数パーセント。
でも、その数パーセントにすがりたかった。
いつまでもこうしてはいられない。
全身すみずみまで何度も洗ったし、シャワーに打たれ過ぎて手指はふやけている。
湯船をまたぐとき、ぐらりと視界が傾き、とっさにつかんだのはシャワーカーテン。
「あっ...!」
僕の全体重に引っ張られて、それはバリバリっとカーテンレールから金具ごと千切れる。
支えを失った僕は、シャワーカーテンごと固い床に横倒しになった。
シャワーヘッドがお湯を巻き散らしながら踊り、僕は固い床を半身に感じながら、目を閉じた。
~ユノ34歳~
X氏の部屋を出た後、俺はチャンミンの部屋へ直行した。
チャイムを鳴らしてもドアを叩いても、ドアは固く閉じたままだった。
チャンミンのスマホをもう一度鳴らしたが、すぐに応答サービスに切り替わってしまった。
「くそっ、くそっ!」
俺は力いっぱい床を踏みつけた。
微かな音量でクラシック音楽が流れるフロアに、俺の悪態だけが下品でうるさかった。
俺はエレベーターホールまで引き返し、フロントを呼び出した。
この部屋にいるのかいないのかを、まずは目で確かめたい。
もし...もしも、ボロボロの姿でいたとしたら...!
俺の求めに応じたスタッフだが、気色ばむ俺の様子に動じるあまり、マスターキーを持つ手が震えていた。
開錠後、俺と共に室内をあらためようとするスタッフを、俺は強引に引き取らせた。
立ち去るスタッフに礼を言い、いよいよ俺は室内に踏み込んだ。
ドアを開けた途端、むわっと湿気に包まれた。
照明のついていない部屋は暗いままで、不安が膨らむ。
浴室のドアが開いており、隙間から灯りが漏れていた。
湯気の出どころでもあるそのドアを開け放った。
(なんだ!?)
バスタブの中で上を向いたシャワーヘッドが、俺の服をたちまち濡らしたのだ。
「!」
俺の足をつまずかせたぐにゃりとやわらかいものに、心臓が止まりそうになった。
ベージュ色のシャワーカーテンにくるまった格好で、チャンミンが横たわっていた。
「...っ」
カーテンをめくって露わになったチャンミンの横顔に、一瞬ひるんでしまった。
倒れた拍子に唇を切ったのか、顎下を朱に染めていた。
それとも...X氏にやられたんじゃないだろうな?
そんな思いがよぎってしまっても、仕方がないだろう。
「チャンミン!」
濡れるのも構わずひざまずいて、チャンミンの肩を抱き起す。
「チャンミン?」
ぐらぐらのうなじを支えて、チャンミンの頬を軽く叩いた。
「チャンミン?
俺だ」
「...ん」
チャンミンのまぶたがうっすらと開いた。
「...よかった...」
チャンミンが部屋にいて、心底安堵した。
浴室の床に伸びるチャンミンの姿に肝を冷やした。
「...に、いさん」
チャンミンの囁き声が聞き取れず、「何?」と口元に耳を寄せた。
酔っ払っている...そこから漂う香りで分かった。
「...僕は」
一日連絡が取れず、X氏の部屋にはおらず、部屋に戻っていたけど酔っぱらって浴室の床に転がっていた。
金具だけがレールにぶら下がっていることから、シャワーカーテンもろとも倒れたようだ。
「頭は?
酔っ払った状態で風呂だなんて...危ないだろう?」
腕を伸ばしてシャワーを止め、ラックから取ったタオルで顔の汚れを拭ってやった。
「...よし」
チャンミンの後頭部や側頭部をあらためて、こぶがないことを確かめた。
「起きられるか?」
俺の問いに、こくんと頷いたから、意識ははっきりとしているようだ。
チャンミンに肩を貸してやったが、膝に力が入らないらしい。
「だいじょーぶです...。
にーさん、僕は、だいじょーぶですから」
「だいじょーぶ」を繰り返す舌ったらずな喋り方は、こんな状況じゃなければ色っぽく聞こえるだろう。
『チャンミン君はここにはいない』
X氏の言葉通りだったが、俺は信じていない。
チャンミンが酒に強いのかどうかなんて、共に酒を飲んだことはないから分かるわけない。
チャンミンは17歳で、今どき律義に守る未成年ばかりじゃない。
でも、缶ビール1本でこうもアルコールの匂いをぷんぷんとさせられない。
「おっかしーな...ここは?
あれ?
あれれぇ?」
だから俺はしんと醒めた気持ちで、チャンミンが発する言葉を無視した。
抱きとめる俺の腕の中から抜け出て、チャンミンはふらふらな足取りで立ち上がろうとする。
「じっとしていろ」
「やっ...。
はなせ...いけるってば。
だいじょーぶですってば」
「チャンミン!」
チャンミンの胴にタックルして、その動きを封じた。
俺の腕の中でジタバタと暴れるチャンミンを、肩の上に担ぎ上げた。
「ばかぁ...。
にーさん、はなせ!」
ミニバーの前を通り過ぎた時、「やっぱり...」と暗い気持ちになった。
未使用のグラス、未開封のボトルが整然と並んでいた。
冷蔵庫を覗いてみると、1本分空いたスペースは多分、ミネラルウォーターのペットボトルだ。
チャンミンが酒を飲んだのは、この部屋ではないってことだ。
果たして本当に無事だったのかどうか...ベッドに下ろしたままの姿で眠るチャンミンを見る限り、確かめようがない。
頭にも手足にも打ち身らしいものは、表面上は見当たらなかった。
唇の傷はきっと、転倒した際にできたものだ。
そうであって欲しい。
確認すべき箇所はあるにはあるが、さすがに尻を割って中を探るわけにはいかない。
残された手段は、本人の口から確かめるしかないってことだ。
・
チャンミンを独りにしていられなくて、部屋にとどまった。
チャンミンを介抱する際にスーツが濡れてしまったため、着替えるために一度部屋に戻った。
シャツの衿口にチャンミンの血液が付着していた。
シャツに付いた口紅跡で浮気がバレる...小説や映画でありがちなシーンが思い浮かんだ。
似たようなものだな、と自嘲が込みあげてきた。
妻の弟と不倫かよ...ふざけてる。
水を張った洗面ボウルにハンドソープを垂らし、汚れたシャツを浸けおいた。
濡らした後になって、クリーニングに預ければよかったんだと思い出した。
X氏から回してもらう仕事が途絶えたら、生活のレベルを相当下げないといけない。
なんでもかんでもクリーニングに預けてしまうBは、耐えられるだろうか。
純粋に絵画に没頭していられた若かりし時代に、思いを馳せる。
ここ1、2年で、絵画の時間を捻出することが難しくなってきていた。
チャンミンと2人だけの秘密の作品...真珠のネックレスを首からぶらさげ、網ストッキングを履いた裸のチャンミンを描いたもの...も、未完成のままだ。
搬入日が迫っている公募展の作品...Tシャツとデニムパンツのチャンミンを描いたもの...は完成間近。
今回のイベントが終われば、商業的な作品作りにとりかからなければならず、忙しい日々が待っている。
今夜の一件があったから、X氏の意向次第では、スケジュールが真っ白になって暇になる可能性の方が高いか。
絵描きに専念できる...いいことじゃないか。
俺の心は重く、暗くふさぎ込んでいた。
今朝までは、俺たちを取り巻く状況は暗いけれど、気持ちだけは前向きだった。
ところが現在の俺の気持ちと言ったら...!
虚しさと絶望感で息苦しかった。
(つづく)
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