義弟(52)

 

 

~ユノ34歳~

 

 

チャンミンを独りにしていられなくて、部屋にとどまった。

 

チャンミンを介抱する際に、スーツが濡れてしまったため、着替えるために一度部屋に戻った。

 

シャツの衿口にチャンミンの血液が付着していた。

 

シャツに付いた口紅跡で浮気がバレる...小説や映画でありがちなシーンが思い浮かんだ。

 

似たようなものだな、と自嘲が込みあげてきた。

 

妻の弟と不倫かよ...ふざけてる。

 

水を張った洗面ボウルにハンドソープを垂らし、汚れたシャツを浸けおいた。

 

濡らした後になって、クリーニングに預ければよかったんだと思い出した。

 

X氏から回してもらう仕事が途絶えたら、生活のレベルを相当下げないといけない。

 

なんでもかんでもクリーニングに預けてしまうBは、耐えられるだろうか。

 

純粋に絵画に没頭していられた若かりし時代に、思いを馳せる。

 

ここ1、2年で、絵画の時間を捻出することが難しくなってきていた。

 

2人だけの秘密の作品...真珠のネックレスを首からぶらさげ、網ストッキングを履いた裸のチャンミンを描いたもの...は未完成のままだ。

 

搬入日が迫っている公募展の作品...Tシャツとデニムパンツのチャンミンを描いたもの...は完成間近。

 

今回のイベントが終われば、商業的な作品作りにとりかからなければならず、忙しい日々が待っている。

 

今夜の一件があったから、X氏の意向次第では、スケジュールが真っ白になって暇になる可能性の方が高いか。

 

絵描きに専念できる...いいことじゃないか。

 

俺の心は重く、暗くふさぎ込んでいた。

 

今朝までは、俺たちを取り巻く状況は暗いけれど、気持ちだけは前向きだった。

 

ところが現在の俺の気持ちと言ったら...!

 

虚しい気持ちで、胸が苦しかった。

 

 

 

 

俺は積んだ枕に背をもたせかけて、膝の上のノートにスケッチしたり注釈を加えたりと、仕事に取り掛かっていた。

 

いずれ無くなってしまうかもしれないが、現在は未だ俺の仕事だ。

 

くの字になって横顔を埋めて、チャンミンは口を軽く開けたまま寝息をたてている。

 

喉の渇きを覚えて、ベッドに足を下ろした時、

 

「...義兄さん」

 

チャンミンの声に振り返ると、目を開けたチャンミンが俺を見上げていた。

 

ベッドサイドの黄色い灯りの元、チャンミンの白目がにごりなくくっきりとしていた。

 

X氏との疑惑がどす黒く渦巻いている俺の目には、その純真さがかえって胸を痛ませる。

 

「...んっ...」

 

半身を起こしたチャンミンは、頭を抱えて呻いている。

 

「痛むのか?」

 

チャンミンの肩を抱き、背中を擦ってやる。

 

「...どうして、義兄さん...ここに?」

 

「倒れていたんだよ、風呂場で。

覚えてないのか?」

 

チャンミンの髪をくしゃりと撫ぜた。

 

「あ...」

 

「酒なんて飲んで...未成年のくせして...。

飲み過ぎなんだよ。

水をたっぷり飲むしかないぞ」

 

ミニバーからミネラルウォーターのボトルを持って引き返し、チャンミンに手渡してやる。

 

指が震えてなかなかキャップを開けられずにいるチャンミンに代わって、開封してやった。

 

「義兄さん...あの...」

 

チャンミンは気づいているのだろうか?

 

俺が疑いを持っていることを。

 

疑いどころか、それが事実に限りなく近いと信じていることを。

 

俺は知らんぷりを決め込んだ方がいいのだろうか。

 

これまでの俺は、チャンミンの日常に興味を持って、詳しく知ろうとしなかった。

 

チャンミンにはチャンミンの日常がある。

 

ある一定の距離感を保って付き合わなければ、こんな不毛な関係は続けられない。

 

チャンミンの日常を把握する資格は、俺にはない。

 

なぜって、俺たちは『不倫』の仲だ。

 

言い換えれば、チャンミンは俺の『愛人』だ。

 

俺たちの関係性については、言葉をにごして曖昧にしているのがいい。

 

チャンミンが唯一、核心に触れた言葉を発したのが、『姉さんと別れないで欲しい』だった。

 

俺の発言『Bとは別れる』の反応がこれだった。

 

俺はその真意を尋ねず、「分かった」と答えただけだった。

 

チャンミンが何を考えていたのか、分からない。

 

「義兄さん...僕は、僕...。

義兄さんに言わなきゃいけないことが...」

 

チャンミンに腕をつかまれた。

 

その汗ばんだ手の平から、チャンミンが緊張しているのが伝わった。

 

「...いいさ。

無理に言わなくていい」

 

知りたくて仕方がないのに、疑いが事実だと知った時の衝撃を想像すると...怖かった。

 

しかし、知らないふりを続けていける自信がなかった。

 

ずっと、重苦しい気持ちを抱えていくなんて...先延ばしするより、『今』知るべきことなんだろう。

 

「でも...あの...僕は...」

 

言い淀むチャンミン。

 

チャンミンの口から言わせようとするから、いけないんだな。

 

ここは俺の方から、ずばり尋ねないといけない場面だ。

 

二の腕をつかむチャンミンの手をとり、指を絡めて握った。

 

「...チャンミン」

 

「......」

 

チャンミンは自身の膝に視線を落としてしまった。

 

そこだけ成長を止めたかのような、骨ばかり目立つ細い脚は相変わらずだった。

 

「正直に言ってくれ。

怒らないから...正直に答えるんだ」

 

チャンミンの手をきつく握りしめて、すり抜けようとしたのを許さなかった。

 

チャンミンの反応に、俺の胸は押しつぶされそうに苦しくなる。

 

「Xさんと...会っていたのか?」

 

「......」

 

「会っていたんだな?」

 

「...知ってるんですか。

どうして...」

 

ここで俺の疑惑が、間違いじゃなかったと決まった。

 

項垂れたチャンミンのつむじ。

 

「会っていたんだな?」

 

「...ご飯を御馳走するからって、誘われて...その。

ホテルのレストランで。

ご飯を食べて...それだけで...」

 

「...正直に言え、と言ってるんだ」

 

俺の押し殺した固い声音に、チャンミンの頭が上がった。

 

「...嘘じゃないです」

 

チャンミンの見開いた眼に、涙が膨らんでいる。

 

泣き顔に騙されるわけにはいかない。

 

俺は目を反らさない。

 

「俺は『本当のこと』が聞きたいんだ」

 

「...でも」

 

「聞いたからと言って、怒ったりしないから」

 

チャンミンが恐れているのが何なのか、俺には分かっていた。

 

口を割らせるために、チャンミンを安心させる言葉を吐くべきなんだろう。

 

X氏への怒り、チャンミンへの怒り。

 

違う...チャンミンへの怒りはない。

 

加えて、俺以外の者と関係を持っていたことへの嫉妬の念ではない。

 

自分自身への怒りだ。

 

おかしいな、と思った時点で、問いただすべきだった。

 

...チャンミンは辛かっただろう。

 

俺にバレないよう、神経をすり減らしていたんだろう。

 

X氏と関係を持つこととなったきっかけは、何だったんだろう。

 

「俺を信じろ。

大丈夫だ」

 

「ホントですか?」

 

背中をごしごしと擦ってやった。

 

「ああ。

チャンミンを嫌いになったりはしない。

だから、正直に話して欲しい」

 

チャンミンの手を両手でくるんだ。

 

 

 


 

 

~チャンミン17歳~

 

 

義兄さんの大きな手に包まれて、安心と恐怖といった相反する感情が同時に襲ってきて、苦しい。

 

ドキンドキンと鼓動が、義兄さんに聞こえてしまうんじゃないかってくらい、うるさかった。

 

「嫌いになったりはしない」と義兄さんは言ってくれたけど、信じてしまってもいいのだろうか。

 

義兄さんは知っている。

 

X氏とのことを知っている。

 

どうやって知ったのかなんて、今は問題じゃない。

 

僕の口から本当のコトを聞かされて、義兄さんがどう思うのかが問題なんだ。

 

「...いつからだ?」

 

嘘をついてもよかったけど、義兄さんを前にしたら、嘘はいけない。

 

「...い、1年前...」

 

「!」

 

義兄さんは絶句している。

 

恐ろしくて、義兄さんの顔を見れない。

 

「...俺と会うようになってからの話か...?」

 

僕は小さく頷いた。

 

「...どうして」

 

その通りなんだ。

 

この質問が最も答えにくいんだ。

 

慣れていない身体が恥ずかしくて、義兄さんと初めてことに及ぶ前に、経験しておきたかった。

 

男との行為が初めてに違いない義兄さんを、戸惑わせたくなくて、リードするまではいかなくても、僕だけでも先に知っておきたかった。

 

それから、当時の僕は、僕が義兄さんが想う気持ちの方が勝っているのが悔しくて、余裕をみせたかったのだ。

 

「...無理やりか?」

 

迷った。

 

頷いてしまってもよかった。

 

X氏を悪者に仕立て上げれば、僕の罪は軽くなる。

 

「無理やりだったのか?

...乱暴されたのか?」

 

僕は迷っていた。

 

 

 

(つづく)

 

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