義弟(50)

 

~ユノ34歳~

 

「どうした?

俺は今...」

 

扉に開いたエレベーターに乗り込み、階数ボタンを押して「閉」ボタンを乱暴に連打した。

 

チャンミンの部屋かX氏の部屋か...。

 

X氏の部屋だ。

 

「手が離せないんだ。

準備が終わってなくて...で、何?

何の用だ?」

 

「...ユノ。

イライラしてる」

 

Bの指摘にキツイ言い方になってしまったことに気付いて、「ごめん」と謝った。

 

「こっちは大わらわなんだ。

どうした?

もう帰国したのか?」

 

Bは先週から海外へ出かけていたはずだ。

 

『ええ、ついさっき。

ユノにいっぱいお土産を買ってきたから、楽しみにしててね』

 

お土産なんて、今の俺にはどうでもいいことだった。

 

それどころじゃない、チャンミンの顔を見て何もなかったことを確認したかった。

 

X氏の部屋を訪ねる前に、チャンミンの部屋が先だ。

 

3階下の階数ボタンを押し、表示ランプをじりじりと見上げた。

 

ふり返った先の鏡には、汗で前髪を濡らし、それなのに青ざめた顔をした俺が映っていた。

 

息せき切ってチャンミンの部屋を訪ね、ただごとじゃない俺の様子にきょとんとした顔で「何ですか、義兄さん?」とドアを開けてくれることを願っていた。

 

『...ユノ?』

 

俺の名を呼ぶBの声に、はっとする。

 

『...話、聞いてる?』

 

相づちを打つのを忘れるだけじゃなく、全く話を聞いていない俺を、Bが不信がっても仕方がない。

 

「ああ!

ごめんごめん」

 

『多分、明後日あたりにそちらへ行くわね』

 

「ああ、待ってる」

 

『でね...』

 

じりじりしながら、Bの会話の途切れるタイミングを待った。

 

途中階で幾人かの客が乗り込み、もたもたとした彼らの足運びに苛ついて、舌打ちしそうになるのを堪えた。

 

『でね、私、ユノに話が...』

 

「悪い!

もう戻らないと!

今夜は、徹夜になりそうだ、ははは」

 

会話を続けるBを遮って、「明後日、駅まで迎えに行くから」と通話を締めくくった。

 

Bは俺の妻で、何も悪いことはしておらず、悪いことをしているのは俺の方なのだ。

 

結婚して2年足らずの妻を疎ましく思ってしまう夫は、妻の弟に夢中になっている。

 

目的の階に到着し、扉が開くなり俺は飛び出した。

 

チャンミンの部屋までの廊下を走り、ルームナンバー下のチャイムを鳴らした。

 

数秒待って、もう一度ボタンを押す。

 

「ったく...」

 

ノックをしてみても、目の前のドアは開かない。

 

チャンミンのスマホに発信してみても、コール音が鳴るばかりだった。

 

やっぱり...X氏の部屋か?

 

「くそっ」

 

ドアを蹴り飛ばしたい衝動を抑えて、エレベータまで引き返した。

 

 


 

 

~チャンミン17歳~

 

「は、放して下さい!」

 

X氏の腕を跳ねのけようにも、視界がぐるりと回っている僕だから、大した抵抗になっていない。

 

これで何度目になるのか、後ろポケットから滑り落ちて床に転がったスマホのディスプレイが光っている。

 

義兄さんからの通話だ、絶対に。

 

音もバイブレーションも消していたから、X氏を待つ間からずっと、義兄さんからの着信に気付けずにいたんだ、きっと。

 

心配しているだろうな。

 

早くここをやり過ごして、何もなかったみたいな顔をして、義兄さんの部屋に行きたいんだ。

 

こんなことになるなんて、予想だにしなかったよ。

 

開けっ放しのカーテンの向こうは、夕方から夜への狭間の薄闇に染まりかけている。

 

今夜は遅くなる、と義兄さんは言っていた。

 

まだ間に合う。

 

イヤイヤと抵抗しているばかりじゃ、X氏の征服欲を煽るばかりだ。

 

30分か1時間ばかり我慢すればいいことだ、さっさと終わらせよう。

 

観念した僕は、デニムパンツのウエストを緩めた。

 

 


 

 

~ユノ34歳~

 

腕時計を確認すると、間もなく22時。

 

会場の方は後片付けを終えた頃か。

 

例の作品は無事に届いただろうか。

 

イベントの主役の1人が、会場をほっぽりだして1人の高校生にかまけている。

 

 

3階上のフロアに到着した。

 

X氏の部屋は確か...俺の4つ隣のはずだ。

 

「はあ...」

 

手の甲で額の汗を拭った。

 

暖房の効きすぎた館内が不快だった。

 

俺と初めて関係を持った時のチャンミンの肢体が、脳裏に浮かんだ。

 

初めてとは思えない程慣れた動きと、痛がりもせず受け入れた身体を思った。

 

まさか...。

 

今の俺は視野が狭くなっている。

 

針のように狭くなっている。

 

極端な疑いに心を乗っ取られている。

 

そんなこと、分かってる。

 

X氏の部屋のチャイムボタンを続けざまに押した。

 

鋭いノック音が廊下に響く。

 

カチリとドアが開き、長身の俺でも見上げないといけないX氏の巨躯が現れた。

 

「...ユンホ君?」

 

毛量豊かな髪が濡れ、石鹸の香りがする湿った空気をまとっていた。

 

「わざわざ部屋まで...どうしたんだい?」

 

たたずむ俺を見て、X氏は濃い眉を大きく持ち上げてみせた。

 

会場でのトラブルの件を報告する前に、真っ先に俺が口にしたのはこれだ。

 

「...チャンミンは?

チャンミンは、来てますか?」

 

「チャンミン君が?

どうしてまた、私の部屋にいるんだね?」

 

X氏の驚いてみせる台詞なんて、はなから信じていない俺は無視して、同じ質問を繰り返した。

 

「チャンミンは...ここにいるんでしょう?」

 

俺の気迫に負けたのか、状況を楽しんでいるのか、X氏はさも困った表情を見せる。

 

「ユンホ君...チャンミン君がなぜ、私の部屋にいるんだね」

 

「いるんですね?」

 

「いるはずがないだろう?

いないよ。

チャンミン君は、ここにはいない」

 

X氏ははっきりと、そう言った。

 

 

(つづく)

 

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