~Don’t Wanna Cry~
~ユンホ~
「食事に...行きませんか?」
おずおずと切り出され、一瞬だけ迷って、
「喜んで」
と俺は返事をした。
「よかったです」
シムさんは心からホッとした表情をした。
彼に案内されたのは、古くて大賑わいの居酒屋で、スマートな装いの彼が浮いていて可笑しかった。
「いきなり高級レストランじゃ、大げさかと思いまして」
照れて目元をほころばせた。
「ここなら、メニューが豊富ですし」
メニュー表を俺の前に広げる。
「好きなものを選んでください」
食欲なんて全然なかったけれど、彼に変に思われたらいけない。
店員を呼んだ彼は、俺がでたらめにメニューを指さす通りに、注文を済ませてくれた。
次々とテーブルに料理が届く。
俺はおそるおそる、だし巻き卵に箸を伸ばした。
出来るだけ小さく刻んで、口に運んだ。
「あ...」
じわっと広がる命の味。
ちゃんとした食事をしたのは、いつだっただろう。
俺の身体に命が満ち満ちていくのが分かった。
かさかさになった俺の筋肉に、骨に、血管に、栄養たっぷりの点滴液が巡り廻っていく感覚だった。
気付くと、揚げ出し豆腐も、海老の串揚げも小皿にとっていた。
「あなたは、美味しそうに食べるんですね」
「え?」
「見ていて気持ちがいいです」
あまりに美味しくて、じわっと涙がにじんでしまって、焦った俺はおしぼりで目を拭う。
「美味しいですか?」
「ああ、とっても」
彼はそれはそれは優しい笑顔を見せた。
目尻のしわのおかげで、安心して見られる笑顔だった。
「よかったです。
このお店の料理は、全部美味しいんですよ」
財布を取り出す俺を制して彼は会計を済ませ、俺たちは店を出た。
夏の気配が感じられる、湿度が高くて暖かな夜の空気が俺たちを包む。
「駅まで一緒に行きましょうか」
隣を歩く彼の精悍な横顔をちらりと見る。
俺の視線に気づいて横を向いた彼と、目が合った。
とくんと心臓がはねた。
「シムさん...。
今夜はごちそうさまでした」
頭を下げる俺の肩の上に、彼の手がぽんとのった。
「お礼を言うのは僕の方です。
誰かと一緒に食事をするのは久しぶりでした」
細めた彼の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。
ごく近年、彼も誰か大切な人を失ったのだろうか?
彼の笑顔は素敵だけれど、笑顔の筋肉を久しぶりに動かしたかのような、ぎこちなさがあったから。
なんとなく、そんな感じがした。
・
突如、眠りの一日が訪れた。
眠くて眠くて仕方なかった。
5年分の睡眠不足を取り戻すかのような一日だった。
夢も見ず、『泥のように』の言葉通り、こんこんと眠った。
そよぐ風で目覚めた。
彼は裸足のままベランダに出て、フィロデンドロンに水を与えていた。
鉢底から水が流れ出るまで、たっぷりと。
ベランダに出しっぱなしでも大丈夫な季節になっていた。
「よく眠ってましたね。
ユノが寝ている間、僕は3回も一人でご飯を食べましたよ」
ちょっとだけ拗ねた口調で言いながら、室内に戻ってくる。
「進歩していますよ。
上手くなりましたね」
床に直接座った彼は、俺のスケッチブックを膝に広げていた。
「恥ずかしいから!」
手を伸ばすと、彼はスケッチブックを高く掲げてしまう。
「僕の顔を、いつ描いてくれますか?」
「え?」
スケッチブックを取り返そうとした手がぴたりと止まった。
「えっと...もっと上手くなってから...」
「冗談ですよ」
彼はスケッチブックを俺に返すと、マットレスにあごをのせて、じーっと俺を見上げた。
「頬がふっくらしてきましたね。
よかったです」
優しい性格そのままの、丸いカーブを描いたまぶた。
...彼に気付かれただろうか。
彼は鋭い。
あどけない眼差しにさらされて、俺の心は怯えていた。
「安心しました」
寂しそうな笑顔だった。
懐かしい笑顔だった。
・
「今日は、遠回りしていきましょうか」
彼と手を繋いで、足を向けたのは市民公園だった。
日が暮れて完全な無人になった公園は、日中の健全な空間から一変して寂しくなる。
夜のしっとりとした空気、木々が放つ青臭い空気。
砂利道の遊歩道は、公園の大きな池を一周している。
この公園は、俺たちのお気に入りの場所だった。
池には鯉が飼われていて、池をまたぐ橋から餌を投げてやるのを二人で楽しんだのだ。
無人販売小屋の空き缶に硬貨を入れて、パンの耳が詰められたものを買ったんだった。
いっぺんに投げ込んだ俺と、目当ての鯉に狙いを定めて少しずつ投げてやった彼だった。
「食いしん坊なあの太った鯉は、貴方みたいですね」と彼が言って、俺は「離れたところにいるあの鯉は、マイペースなチャンミンみたい」とからかったんだ。
そんな思い出のある公園だった。
「ユノ...」
ずっと無言だった彼が、口を開いた。
彼が何を言おうとしているのか分かった。
「...好きな人が、いますね」
自分でもはっきりわかるくらい、肩がビクリとした。
「僕は気付いていましたよ」
俺たちは立ち止まった。
柵の向こうの池は、夜の闇に沈んでしまっている。
「...ごめん」
そう言うのがやっとだった。
(つづく)