チャンミンの喉には、茶色い色素沈着の輪が出来ている。
長年固く太い首輪を巻かれ、力づくに引っ張られてきた名残...何て言い方はぬるいな...傷跡なのだ。
見慣れてはきたが、ルーフバルコニーの屋外の光の下では、なまっちろい肌にその痕はあまりにも目立った。
チャンミンはかつて『犬』だった。
大抵の者は目を反らし、そこから暴力の匂いを感じとるだろう。
痛々しいからといって、痕を隠せるアクセサリーとなると、首輪しか思いつかないのだ。
タートルネックのトップスを着たりスカーフを巻く手もあるにはある。
洋服に関しては相変わらずだ。
下着を1枚身につけただけでウロウロするチャンミン。
「客が来たとき驚いてしまう。
せめてTシャツだけでもいいから、着なさい」
ぷぅと膨れるチャンミン。
口を尖せるなんて、大人の男がするには幼稚な表情だ。
「大人の男になりたいんだろう?
裸でいるなんて、ホンモノの犬みたいだぞ?」
言葉の選択を誤ったかな、とヒヤリとしたが、チャンミンは気にした風はない。
「それは困ります。
ホントは嫌ですけど、お兄さんのために着ます」
貸したTシャツに袖を通し、クローゼットの扉に取り付けた鏡に、自身の姿を写している。
「それに、はやく大人の男になりたいですから」
振り向いた笑顔が無垢過ぎて、俺はやっぱり胸が締め付けられそうになるのだった。
チャンミンには皮肉や嫌味は通じない。
言葉の意味そのままを受け入れ、「なるほどそうですね」と頷いたり、しょんぼりしたりする。
褒めれば、小躍りして喜びを発散させる。
チャンミンは素直だ。
怖いくらいに素直だ。
こんなんでよく、無数の客を相手にする職を続けてこられたな、と俺は感心するのだ。
何色にも染まっていないのは、芯のしっかりとした心を持っているのだろう。
だからこそ。
チャンミンに外の世界を見せてやりたい。
いつ『犬』になったのかによるが、チャンミンは社会生活を送った経験はないのでは、と思っている。
チャンミンの言葉遣いや見るもの触れるものに、いちいち目を輝かせるところから分かるのだ。
そうなんじゃないかと。
ここに来てからのチャンミンの教材は、TV番組だ。
おやつで出したドーナツを齧ることを忘れて、ぽかんと口を開けて見入っている。
その時のチャンミンの顔は百面相だ。
難しい言葉を耳にすると、「お兄さん、『僭越ながら』とはどういう意味ですか?」「『オンデマンド』とは?」などと質問してくる。
一度覚えた言葉は、早速使ってみたりして、俺を微笑ませるのだ。
その姿を、リビングを通りかかった際や、ほっとひといきお茶の時間などに、飽きもせず眺めるのだ。
そして、やはり切なくなるのだ。
チャンミンは一体いつから、社会から隔離された生活をしていたのだろう。
興味があった。
少しずつ聞き出して、チャンミンのことを知っていこうと心に決めた。
・
俺たちは日向ぼっこをしていた。
バルコニーには樹木を植えた大きな鉢植えが並べられている。
オリーブやユーカリ、ジューンベリーやビワなど果実のなる樹木、葉の形を楽しむだけの難しい名前のものも。
ハーブだけを植え付けたコンテナもある。
赤や黄色、ピンク色など、色鮮やかな花が咲く植物は好みじゃなかった。
グリーンとホワイトに統一された、俺の小さなオアシス。
手入れは専門業者に依頼していたところ、「僕の仕事にします」とチャンミンがそれを買って出た。
チャンミンはラベンダーの葉先に触れ、手の平に移った芳香をくんくんと嗅いでいる。
「いい匂いがしますねぇ」
次はリンゴの木の根元にびっしりと茂ったタイムに同様なことをしている。
「この木は、実がなりますか?」
「ならないよ」と答えると、「えー」と心底残念そうに両眉を下げる。
「リンゴは1本だけじゃ実がならないんだ。
2本以上植えないと」
「そうなんですか...。
お兄さんは物識りですねぇ」
チャンミンは水やりをしていた。
植物が水を吸い込むしゅわしゅわとした音。
濡れた草木は瑞々しく、濃い緑になっている。
コンクリートの床に落ちる影は濃い。
俺は寝椅子に横になって、イヤホンで音楽を聴きながら雑誌をめくっていた。
たまに顔を上げて、チャンミンの姿を目で追った。
オーバーサイズのTシャツから伸びる細くて長い素足。
足元は裸足だ。
アクリル製の柵の向こうは、空はぱきっと青く、高層ビル群の薄青から薄灰色のグラデーション。
ひときわ高層の鏡面仕上げのビルは、眺める角度を変える度、ギラっと鋭い光で俺の目を射る。
くねくねと複雑に重なった高架道路。
オフィス街を抜けた先、低層のビルが建ち並ぶエリアの裏道に、チャンミンが暮らしていた店がある。
健全な精神の持ち主なら、通り抜けるのを躊躇してしまう雑多で怪しい空気に満ちた路地にある。
「わぁっ!」
ふざけたチャンミンが、シャワーヘッドを俺の方に向けたのだ。
霧状のシャワーが俺の全身を濡らす。
チャンミンはアハハハと笑っている。
大きな口だ。
・
ひとり留守番をさせるのが心配で、外出を控えていた俺だった。
自宅にいながら何でも手に入るし、仕事もできる。
とはいえ、同居生活も2週間を超えると、思いきり身体を動かしたくなる。
ルームランナーで10㎞走ってみたが、どうもすっきりしない。
今日はあいにくの雨降りだ。
次に晴れた日に、チャンミンを連れて散歩でもしようと思った。
スタンドで飲み物とサンドイッチを買って、公園の芝生に腰を下ろして食べよう。
喜んでくれたらいいな、と思った。
~チャンミン~
お兄さんに借りたTシャツは、当たり前だけどお兄さんの匂いがする。
僕は匂いに敏感だ。
薄いピンクの壁に囲まれた部屋の中にいると、遠くの景色を眺めることはない。
音に関しても、意味の分からない音楽が常に流されている。
唯一、バリエーションが豊かなのは匂い。
客ごとに匂いが違う。
お兄さんのあそこを頬張った時のことを思い出した。
とてもえっちな匂いがした。
お兄さんは相変わらず僕を抱いてくれない。
お兄さんとひとつ同じベッドで眠っているのに、僕に手を出さない。
ハグをしたり、唇が触れるだけのキスはしたりしているけど、それだけ。
じれったくて、胸がモヤモヤする。
沢山の客たちから浴びるようにされてきて、ハグとかキスが当たり前だった僕。
前のショユーシャの人は、僕にハグやキスや、もっといろいろなことをしたくて買い取ったのに。
そういうことに僕は慣れっこだったし、そのために買われたんだから、一生懸命に応えてあげたのに。
お兄さんは、僕とハグやキスをするために買ったんじゃないのかな。
そのことが寂しかった。
だって僕は、お兄さん専用の『犬』なんだから。
・
お兄さんの家は広くて、暑くも寒くもなく、ルーフバルコニーから見下ろす景色が素晴らしい。
王様の気分になれる。
お兄さんにお礼がしたくて、植物の世話を僕に任せて欲しいと頼んだんだ。
見るからに柔らかそうな芽吹いたばかりの葉っぱを、指先でちょんちょんとくすぐる。
お兄さんは「それは雑草だよ」と言って笑っていた。
しゃがんだ僕は、花壇の縁に両肘をついて、鼻を近づけて深呼吸する。
水っぽく青い匂い、バークチップの辛い匂い、先ほど撒いたばかりの水が乾いていくコンクリートの香ばしい匂い。
太陽は背中を温めて、どうやってここまでたどり着いたんだろう、ミツバチがぶぶぶと羽音をたてて飛んでいる。
ミントとカモミールの花の間を行ったり来たりしている。
秘密の花園。
ルーフバルコニーを僕はそう呼ぶことにした。
・
昨日から僕は、お兄さんに取り寄せてもらったカタログを見ている。
「欲しいものがあったら注文していいからな」って。
僕の様子を窺いにリビングに寄ったお兄さんは、僕の肩ごしにカタログを覗き込んだ。
「リンゴの木が欲しいです。
それから...これも」
「...ズッキーニだぞ、それは?」
ズッキーニが分からなくて首を傾げていると、「野菜の名前。オーブンで焼いて食べると美味しいんだ」と教えてくれた。
「気になるものは、ページの隅を折っておいて。
まとめて注文するよ」
「はい」
シアワセ過ぎて、胸がウズウズする。
お兄さんはとても優しい。
でも、切れ長のまぶたの下の瞳は真っ暗で、じぃっと見つめていると僕まで悲しくなる。
お兄さんは寂しいのかな、と思った。
ソファに腰掛けたお兄さんのひざに、向かい合わせにまたがった。
「チャンミンっ...」
お兄さんの頬にそっと手を添えて、顔を斜めに傾けて唇を押し当てた。
お兄さんを困らせてしまうから、押し当てるだけまでで我慢した。
ホントはもっともっと、べろべろしたキスがしたい。
今日のキスは、僕の背中を撫ぜながらだったから、一歩前進だ。
お兄さん、安心していいよ。
追い出されるまでは、僕がそばにいるから。
(つづく)
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