~ユノ34歳~
その後、数人の客の相手をした。
この3週間繰り返した文言だったから、すらすらと諳んじられる。
作品解釈、制作秘話、次の作品の構想、将来の展望...を上の空で語った。
照明がギラギラ目を射る。
寝不足が堪えてきたらしい、目をつむり目頭をつまんだ。
外の空気でも吸おうかと会場を出た。
「暑い...」
疲労の汗と脂が浮かんだ顔を洗えばさっぱりするだろうと、手洗いのある3階へエスカレーターで上がる。
静かなところで一息つきたかった俺は、混雑したそこを離れ、利用者の少ない階に向かうことにした。
エレベーターを待つ間、再びチャンミンについて思いを馳せる。
今朝のホテルでのことだ。
チャンミンの立場になって考えてみた。
辛かっただろう。
俺とBがいる場に、半ば強引に引き出した。
チャンミンを隠すなんて、彼にとって屈辱的なことをさせられなかった。
だからと言って、夫婦の前に引っ張り出すなんて、酷いことをしてしまった。
俺とチャンミンには何もいかがわしいことはない...これを示したかったんだな。
狡い男だった。
Bはチャンミンの姉で、俺の妻。
平静を装おうとしているチャンミンがいじらしかった。
極めて自然に振舞っていた。
心中はネガティブな感情の嵐でもみくちゃになっていただろう。
もし俺だったら...。
もし俺が10代の若者だったら、耐えきれなくてあの場で全部、バラしてしまっただろう。
チャンミン...。
いい子だ。
そんな子を今、俺はひとりきりにさせてしまっている。
再び、チャンミンになったつもりで想像してみた。
不安と嫉妬で苦しんでいるだろう。
「...しまった」
今夜はチャンミンと会うつもりだったのに、Bとの約束とバッティングしてしまった。
正直な気持ち、チャンミンを優先したかったが、Bとの約束をすっぽかすわけにはいかない。
こうして天秤にかける俺は、何様なんだろう。
腕時計を確認する。
チャンミンの心情を想像したらもう...放っておけなくなった。
30分かそこらなら...。
きびすを返したその時。
昇りエスカレーターからその姿がゆっくりと現れた。
そうだった...この子はこんなにも綺麗な子だったんだ。
「チャンミン!」
チャンミンの目が真っ赤だった。
寝不足のせいじゃない、少し前まで泣いていたんだ。
涙の理由は...痛いくらい分かっていた。
胸が強大な罪悪感で押しつぶされて、呼吸がしづらかった。
俺はチャンミンの手を握ると、ちょうど到着したばかりのエレベーターに連れ込んだ。
この恋は苦しい。
俺のことはどうでもいい...チャンミンが一番、苦しい。
行き止まりの恋だから。
チャンミンを苦しめているのは...俺だ。
~チャンミン17歳~
「...どうしよう」
知らず知らず声を発していた。
義兄さんからもらった、大事なトレーナーを失くしてしまった。
X氏の部屋へ取りにゆけばいいことだけど、それだけは出来ない。
僕自身、会いたくないし、「もう二度と会わない」と義兄さんと約束したんだ。
失くしたと知ったら、義兄さんを悲しませてしまう。
「そっか...」
同じものを買えばいいんだ!
義兄さんも失くした...実際は僕が盗んだ...ブレスレットと同じものを買って誤魔化したように。
駄目だ、これを買ってもらったのは1年近く前、もう手に入らないだろう。
情けなく、悔しかった。
17歳に過ぎない自分の無力さが悔しかった。
馴れた身体になりたくて、怖いもの知らずでX氏に近づいた、自分の馬鹿さ加減が情けなかった。
拒絶の意思を、X氏に徹底的に示せなかった自分が悔しかった。
あの時、「姉さんと別れてください」と言えなかった自分の弱さが悔しかった。
じわっと湧いてきた涙を、こぶしで拭った。
ここに来てからの僕は泣いてばかりだ。
すぐに涙をこぼす自分が子供っぽくて、情けなく悔しかった。
僕はデイパックを背負って、部屋を出た。
デイパックの奥底に押し込んだ紙袋を意識した。
義兄さんに渡すはずだったものがおさまっている。
1年分のアルバイト代をはたいて買ったものだ。
そのアルバイト代も義兄さんが貰ったモデル代だったから、おかしな話だけど。
高校生の僕がひとりで行くには気が引けたし、大金を持った僕に店員が不審がるだろうから、Mに同行してもらった。
僕のセンスじゃ相応しいものを選べなかったから、Mのアドバイスに助けられた。
義兄さんの誕生日の二か月以上も前のことで、早くこの日が来ないか待ちどおしかった。
クローゼット奥に隠しておいた、それの存在を意識した日々の、甘やかなことと言ったら!
僕の贈ったものが的外れだったり、センスのいい義兄さんの趣味にたとえ合っていなかったとしても、彼のことだ...絶対に笑顔を見せてくれると確信していたから。
「...っく...」
困ったな、涙が止まらない。
パーカーの袖で涙を押さえた。
ホテルのロビーで通り過ぎる人々には、僕のことを酷いアレルギー持ちだと勘違いして欲しい。
ぐるぐる巻きにしたマフラーに、鼻上まで顔を埋めた。
温かい...義兄さんに守られている気がした。
フロントにカードキーを返却し、うつむき加減で早歩きでエントランスドアを目指した。
ふいに頭を上げた時、自動ドアに手を添えたドアマンと目が合ってしまい、僕はわざとらしく目をこすり、会釈してそこを通り過ぎた。
左に行けば駅までの送迎バスの停留所が、右へ行けばコンベンションセンター。
「ふぅ...」
僕は大きく息を吐き、歩き出した。
・
黒い傘とレンガを模したタイル敷きの地面しか視界に入っていなかった。
傘を貸してくれたホテルスタッフ、通り過ぎたタクシードライバー、すれ違ったスーツの人、制服を着た警備の人、大人たち。
コンベンションセンターに吸い寄せられる色とりどりの傘。
チケット売り場のお姉さんから、「学生さん?」と尋ねられ「はい」と頷いた。
高校生料金で入場できてしまう自分が情けなかった。
義兄さんから関係者用パスカードを貰っていたことを、入場してから思い出した。
「関係者」の響きに得意げになっていたのは、わずか2日前のこと。
目に飛び込んでくるアートの世界、天井は高く、一昨日来たときはなかったアート作品が会場中央に垂れ下がっていた。
その下にステージが設置されているのは、閉会セレモニーのためなんだろう。
そして、あそこのパーテーションの奥が、義兄さんのブースだ。
足を向けかけてすぐ、立ち止まってしまったのは、X氏がいる可能性に思い至ったからだ。
通路の真ん中で立ち尽くす僕を、邪魔そうに避け、迷惑そうな表情をわざわざ振り向いて見せる人もいた。
義兄さんはアートの世界では有名だそうだから、みな彼のブースを目指しているのだ。
勢いよく踵を返したところ、後ろにいた人物にぶつかってしまった。
考え事で頭がいっぱいで周囲に気を配れず、足元ばかり見ていた僕が悪いのだ。
「す、すみません」
僕の心臓がドキンと跳ね、直後全身が冷えた。
X氏かと思ったのだ。
ところが、単に体格のいい男性と分かり、安堵した僕は頭を下げ、その場を立ち去った。
よそ行きの顔をして、大人な対応をしている義兄さんを見たくなかったのだ。
僕と義兄さんの距離の大きさを、思い知らされるだけだったから。
自分が何をしたかったのか、見失ってしまっていた。
気づいたらエスカレーターに乗っていた。
最上階は365度ガラス張りで、街の景色を臨めるのだとか。
駅かホテルか、どこかで手に取ったパンフレットなんかで目にしていたんだろう。
そういう予備知識が記憶の隅にあったからか、僕は無意識に上階を目指していた。
じれったいほどのろまなエスカレーターだ。
何を見ようっていうんだ?
僕はゆっくりゆっくり上昇していった。
エスカレータの溝だとか、スニーカーの先だとかに視線を落としていた。
つかんだ指で手すりをとんとん、と叩いていた。
床が吸い込まれる降り口が見えた時、
「チャンミン!」
僕の名を呼ぶ人がいた。
(つづく)
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