「ノートに名前を書くんだ」
カウンターに置いたノートに、僕は2人分の記名をすませた。
「2時間後には戻ってこないとダメなんだ」
ステーションの壁掛け時計で時刻を確認し、「出」の欄に記入する。
「2時間ずつ1日2回も出られるから、わりと自由でしょ?」
「時間、間違ってるぞ」
「いいのいいの。
少しでも長くお散歩したいでしょ?
30分遅く書いておくんだ。
スタッフはいちいちチェックしないからね。
ほら、エレベータが来たよ」
透明ゴーグルと黒マスク、薄手のガウンを羽織ったユノを手招きした。
ガウンの両ポケットに手を突っ込んだユノのために、エントランスドアを押さえていた。
とても頑丈なドアだ。
いつだったか、食堂の椅子でドアをぶち壊そうとした入所者がいて、ガラス製に見え、アクリル樹脂製のそれは、ヒビひとつかなかった。
夜20時に施錠され、翌朝4時45分に開錠されるまで、僕ら入所者はこの階に閉じ込められるのだ。
「敷地内なら自由なんだ?」
「うん。
一階には売店があるよ。
お菓子やアイスクリーム、文房具が買えるよ」
「なあ、チャンミン」
階数ランプを見上げていたユノが僕に声をかけた。
「何?
ねえ、ユノって背が高いね」
ユノの目の高さは僕と同じだ。
「あんたこそデカいな。
あのワンピースは特注なのか?」
ゴーグルのバンドのせいで、後頭部の髪がくしゃっとなっている。
手袋をはめているから大丈夫か、とバンドに挟まった髪を引っ張り出してあげた。
僕に触れられて、案の定ギョッとした風だったユノ。
ところが手を払いのけることなく、ふんと鼻を鳴らしたのち、操作プレートの観察に戻ってしまった。
内心、ホッとしていた。
「あれはねぇ...」
一瞬、言いよどんでしまった僕。
すぐに思い直した。
ユノに近づきたい僕だったから、惜しげなく過去を開示しようと思ったのだ。
「...あれはね、形見なんだ」
珍しいものでもあるかのように、階数ボタンを観察していたユノが振り向いた。
まるで自身のことを言い当てられたかのように、見開いたユノの眼はギラついていた。
「形見?」
「うん」
1階に到着したエレベータからユノを先に通し、僕も次いで下りた。
エレベータ降り口の真ん前が正面玄関で、昨日ロータリーで車を降りたユノはそこを通って、僕らの階にやってきたのだ。
この建物は中庭をコの字に囲んでいる。
コの字の突き当りまで進み、ガラスドアを開けると目的地だ。
「形見ってのは...母親とかの?」
「ハハハっ!
もしそうなら、ずいぶんデカい母親になるよね。
ううん、違う」
「じゃあ、誰の?
いや、答えなくていい。
不躾なことを尋ねてしまった。
すまない」
僕たちはベンチに座った。
(ユノは持参してきたレジャーシートを敷いた上に腰を下ろしている)
「ユノさん、謝らないで。
僕は話したいから話すんだ」
ユノは透明ゴーグルを外した。
「...ユノさん?」
驚く僕の前で、ユノは黒マスクも外した。
僕の表情に、「そんな驚いた顔をするなって」と、ユノは唇の端だけで笑った。
「そっか...」
不特定多数の者の呼気がこもり、不特定多数の者が触れた壁や調度に囲まれた、換気システムも旧式な建物の中は、ユノにしてみたら恐怖の空間なのだ。
確かにここは、室内よりは清潔かもしれない。
雨上がりの空気は清々しかった。
パジャマ姿の僕に対し、ユノは水色ストライプのシャツとホワイトデニム姿だった。
仰々しいコスチュームを取り除いたユノは、好感の持てる爽やかな青年だった。
黒々としたまつ毛が縁どる切れ長の目の印象が強いのは、静脈が透けてみえるくらい白い肌のせいだ。
誰もがユノの素顔を目にしたら、ハッと息を飲むだろう。
多くの者たちはユノの異常な出で立ちにばかり目がいってしまい、その下に白亜の美貌が隠されていることに気付かずにいたのに違いない。
「僕はワンピースを沢山持っている。
その全部が形見なんだ。
形見と言うように、その人はもういない」
ユノの履いたスニーカーは泥汚れひとつなく、赤茶のレンガに映えてパキッと白かった。
かかとを踏み潰した自分のスニーカーが恥ずかしくなって、ベンチの下に両足を隠した。
午前中の日差しはまだ、中庭まで差し込んでおらず、前日の雨でレンガ敷の地面は湿っている。
「それはいつの話?」
「えっと...3年前かな」
「じゃあ、チャンミンは3年前からここにいたの?」
「そうだよ」
「辛かったんだな」
ぶっきぼらぼうなユノの口から、いたわりのこもった温かい言葉が発せられたのが意外過ぎて、じんわり感激する間もなかった。
「うん...辛かったよ。
僕の場合は3年は経っているからね。
僕よりもユノさんの方が辛いんじゃない?
まだ日が浅いでしょう?」
ガウンのポケットから出した両手で、ユノは顔を覆った。
「ああ」
「いつ?」
「一か月前」
「直ぐにここを見つけてよかったね」
「ああ」
僕はカーディガンのポケットに入れていた、アルコールスプレーを手に擦りこんだ。
その手でユノの頭を撫ぜた。
真っ黒な髪から想像するよりも、柔らかい髪だった。
「申し込んで入所するまでの3日間は苦しかった。
瀬戸際だった。
4日かかっていたら...死んでいただろう」
素直にその言葉を口にしたユノは、僕のように屈折していない。
(つづく)
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