~夏~
風のない日だった。
私とチャンミンは、ポーチのベンチにぐったりとだらしなく座っていた。
暑さが堪えているチャンミンの呼吸は早く、舌は出しっぱなしだ。
プラムを漬けたシロップを、水で薄めたものを飲んでいた。
からからと氷がたてる音が涼やかだった。
グラス表面の水滴が指先を冷たく濡らし、チャンミンの鼻に押し当ててやった。
チャンミンの身体で唯一体温調整できるのは鼻だと、ユノさんに教えてもらったからだ。
プラムジュースをガラスボウルに注いで、チャンミン用に用意した。
チャンミンの頑丈な顎はゴリゴリ氷をかみ砕き、長い舌であっという間にボウルの中身を飲み干してしまった。
「暑いね~」
手にした団扇を自分とチャンミンと交互に扇いだ。
団扇で扇いでやるとチャンミンは気持ちよさげに目を閉じ、彼の次は私の順番。
汗がにじむ首元を扇いでいると、私の腕にとん、と前足を置いて「そろそろ僕の番ですよ」と催促する。
牧草は厳しい暑さで茶色く枯れている箇所がところどころあった。
自前のセーターを着た羊たちは、数本の樹木があるだけのささやかな林で涼んでいた。
空と草原の境界線は、そこだけ空気が歪められてゼリーの層が出来ていた。
「チャンミン、あれが陽炎だよ。
見える?」
チャンミンはお付き合い程度にちらと視線を向けただけで、ベンチの下にもぐり込んでしまった。
チャンミンは陽炎には興味がないようだ。
花壇に植えたヒマワリは、ぐったりと頭を垂れている。
ひまわりの種をチャンミンにあげたら食べるかな?
きっと大好きだろうな。
暑い暑いといいながらポーチにいたのは、これからしようとすることに迷っていたせいだ。
裏手の雑木林へ散歩に出かけるには、少しばかり勇気が必要だったのだ。
用意はできていた。
洋服の下に水着を着こみ、リュックサックには必要なものを詰め込んであった。
タオル、お菓子、万が一のためにチャンミン救出用のロープ。
カーキ色のこの大きなリュックサックは、ユノさんからのお下がりだ。
引きこもりのせいで出番のなかったこれが、チャンミンとの散歩で大活躍している。
笹やイラクサでひっかき傷をつけないよう、長靴を履いてもいた。
私の足元がいつものサンダル履きじゃなく長靴だということに、チャンミンは気づいているのに気づいていないフリをしていた。
チャンミンの眼が期待できらきら輝いていたから、それがフリだと私にはバレていた。
「暑いですねぇ」とベンチの下で腹ばいになって、昼寝するふりをしている。
「よし!」
すっくと立ちあがりリュックサックを背負うと、ベンチの下からチャンミンは転がり出てきた。
いつものチャンミンは、先へと駆けてゆき私が追い付くのを待って、再び私を先導していくのだが、彼にとってはじめての雑木林。
この日のチャンミンは不安なのか、私の後を追ってくる。
林の中へと足を踏み入れると、鬱蒼と茂る葉でぎらつく日光は遮られ、気温が3度ほど下がったように感じられた。
やかましい蝉の声との距離が縮まった。
太い脚のわりにチャンミンの足先は小さい。
木の葉が降り積もった湿った地面は柔らかく、私たちの足裏を受け止めた。
蝉の音を除けば、ガサガサと笹の葉をかき分ける音だけだった。
「チャンミン!
食べちゃダメ!」
私は悲鳴をあげた。
チャンミンは木の根元に生えたクリーム色のキノコに興味津々だった。
鼻の穴でキノコを吸い込みかねないほど、鼻をうごめかしている。
「毒だよ、毒!
死んじゃうよ!」
私はチャンミンを突き飛ばし、辺りに生えていたキノコをひとつ残らず踏み潰した。
「なんでもかんでも口に入れていいってものじゃないよ!
お前は食い意地が張ってるんだからっ!」
その間チャンミンは、今まで見せたことのない私の剣幕にポカンとしていた。
突き飛ばされ腰を抜かしたようにお尻を落としたチャンミンに、私は我に返った。
「ごめん。
ごめんね」
恐怖と怒りの形相を解くと、チャンミンはそろり立ち上がって私に歩み寄り、鼻づらをこすりつけた。
チャンミンと目線が合う高さまで抱き上げ、
「びっくりさせてごめんね。
そうだよね、チャンミンは知らなかったもんね」と謝った。
チャンミンの眼に、木漏れ日と梢が作る影が映り込んでいた。
「あともう少しだよ。
出発進行!」
私はチャンミンを地面に下ろし、彼を先導して傾斜の緩やかな林の中を突き進んでいった。
私たちの家の裏手の雑木林を2、3百メートル上ると舗装された道路に出る。
それは別荘地へと続く道であり、メインストリートでもある。
管理人の手入れにより、道際の雑草は短く刈られている。
十数棟の建物が樹木や塀を境界線に、十分な間隔をもって建っている。
去年は見かけなかった自働車が2,3台駐車していた。
別荘地を突っ切った方が近道になるが、今の私はチャンミンを連れている。
みすぼらしい田舎者の自分をさらすのも恥ずかしかったし、他にもいくつかの理由があった。
私には出来ない理由が沢山あり過ぎる。
そして、沢山の矛盾も抱えている。
思い煩うことなく、怖いもの知らずで何でもできたらいいのに、と思う一方、どうにでもなれ、と無茶なことも出来てしまう。
2年前、とても怖い思いをしたというのに、水遊びの用意を整えてチャンミンとここに来ている。
私の神経は、あるところでは極端に過敏で、別のところでは鈍感なのだ。
多分、心のセンサーが壊れているのだと思う。
ユノさんは、「人間誰しも矛盾だらけだよ。ミンミンにはおかしいところは全くない」と言い聞かせてくれるんだけど...。
(つづく)
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