~秋~
「ミンミン...ここまで一人で来たのか?」
私は頷いた。
「どうやって?
まさか歩いて!?」
「ううん。
本屋のおじさんがここまで送ってくれた」
ユノさんは口笛を吹くと、「凄いな」と目を丸くした。
「それに、チャンミンも一緒だったから」
私の背中でリュックサックの中身が、もぞもぞと動き出した。
「外に出して」とチャンミンが、私の背中を引っかいた。
「もうちょっと我慢してて」と言い聞かせたけど、我慢できないチャンミンは暴れ出した。
多分、私のお供を務めた自分を、ユノさんに褒めてもらいたかったんだと思う。
私はユノさんに問う視線を送ると、彼は私のリュックサックを引き取り、ついてくるよう頷いた。
私とチャンミンは門を抜けてすぐの、倉庫のような大きな建物に案内された。
コンクリート敷きの床には野菜くずが散らばり、枯れ草の束、木の枝、積み上げられた飼料袋、いくつものバケツ、壁際に大きな冷蔵庫が並んでいる。
ユノさんはリュックサックを床に下ろすと、紐を解いた。
ぴょん、とチャンミンが飛び出して来た。
押し込まれて縮こまった全身をほぐそうと、背中を反らしたり、脚の1本1本を順に伸ばしてストレッチし始めた。
ユノさんが「ミンミンを連れてきてくれてありがとうな」とチャンミンの頭を撫ぜると、チャンミンは得意げに顎をつんと上げた。
「わざわざここまで来た理由はなんだい?」
ユノさんは片膝をついてしゃがみ、私の両肩に手を置いた。
ユノさんは大事な話がある時は必ず、私の眼の高さになって水平に、真っ直ぐ見て話す人だかった。
のんびりはしていられない。
「あのね。
タミーがね、タミーが死んじゃうかもしれない...」
そう言った途端、ユノさんの顔色がさっと青くなった。
「タミーが!?
どんな具合なんだ?」
「ぐったりしてて、目をつむってて。
水を飲むのもやっとなの。
弱ってるの。
だから、ユノさんに付き添ってもらいたいの」
「そうか...」とつぶやいたユノさんの唇は小刻みに震えていて、私を見ているのにその眼は焦点が合っていなかった。
ユノさんは仕事中だ、どうしようか迷っているのだと思った。
「だから私たち、ユノさんを呼びに来たの」
ユノさんは立ち上がると、壁に取り付けられた電話の受話器を取った。
そして、謝ったり、電話口の相手に何か指示している。
私も立ち上がり、リュックサックに入るよう蓋を開けて見せたけど、チャンミンはぷい、と顔を背けてしまった。
「のけ者みたいに閉じ込められるのは、もうごめんです」
仕方なくユノさんのジャンパーを借り、チャンミンをくるんだ。
動物園の人に見つかったら大変だ。
アルパカの檻の中で見つかった「あの生き物だ」と気付かれて、動物園に連れ戻されるかもしれないから。
「行こうか」
ユノさんは私の腕からチャンミンを抱きとると、軽々と小脇に抱えた。
通用門を出、トラックが停めてある駐車場へと、早歩きのユノさんの後ろ姿を追った。
ジャンパーの裾から、チャンミンのお尻とだらりと力を抜いた後ろ脚がはみ出している。
チャンミンはユノさんの前だと、途端に聞き分けのよいお利口さんになるのだ。
全員が車内におさまると、ユノさんはトラックを発進させた。
急いでいるのに丁寧な運転で、「緊急事態の時こそ事故を起こしてしまったら元も子もないだろ?」とユノさんは言った。
頬かむりをしたままのチャンミンは、神妙な面持ちで車窓の景色を眺めていた。
この出来事は後年、ことあるごとに笑い話として話題に出た。
私にとって初めての大冒険の日だった。
世の中冷たい人ばかりじゃないと知った、初めての日でもあった。
「あの内気な君がね」と、ユノさんはくすくす笑う。
その度に私は、
「チャンミンがいてくれたからだよ。
感謝してもしきれないよ」と答えるのだった。
前庭へ頭から突っ込むようにトラックを停車させると、ユノさんは飛び降りた。
ポーチの階段なんて、2足で駆けあがってしまった。
「タミー!」
私とチャンミンも後を追った。
ユノさんは玄関に入ってすぐの所で立ち尽くしている。
ああ、遅かったんだ。
私が道を間違えたりしなければ間に合ったのに...のろまな私のせいだ。
チャンミンはユノさんと私の足の隙間をすり抜け、家の中に入っていった。
私はドア枠とユノさんの脇腹の隙間から家の中を覗き込んだ。
「...タミー」
そこで私たちが目撃したのは、室内を歩き回っているタミーの姿だった。
ボウルの中身(牛乳でふやかしたパン)は空っぽだった。
死にそうどころか、ぴんぴんしていた。
急激な気温差が老体に堪えたが、ゆっくり休んだら回復した...ただそれだけのことだったのだ。
・
その夜、私たちは夕食後で皆、思い思いに過ごしていた。
大冒険でくたくたのチャンミンは、タミーのお腹を枕に眠っていた。
「愛犬の具合が悪いからって、仕事を早引けするなんてな...ははは。
俺は動物が好きだし、世話をするうち懐いてくれると嬉しい。
動物園では、あの子が...今度はこの子がって具合が悪いのはしょっちゅうだ。
その度に、とても心配するし、できる限りの事はする。
...こういう時に、自分にとって一番大切なものが何なのか分かるよ」
しみじみとした言い方だった。
「ユノさんにとって、タミーなんだね」
「タミーだけじゃないよ。
ミンミン、君もだよ」
「私...も?」
「俺にとって大事な存在だよ」
「でも、私...他所の子だし。
ユノさんとは2年しか一緒にいないし」
「ミンミンが俺を呼ぶために、動物園まで来てくれた。
『ユノさんに会いたいと子供が来ていますよ。急ぎの用だそうです』と呼び出されてね。
俺を見た時の君の心底ほっとした表情と言ったら...。
嬉しかったなぁ。
ミンミンはどこか俺に遠慮しているところがあったからね」
ユノさんを迎えに行ってよかった、と思った。
これも後年、ユノさんが私に教えてくれたことだ。
実はタミーのことは、それほど心配はしていなかったそうだ。
常に動物の世話をしてきたユノさんだ。
タミーは大丈夫だと分かっていた。
勇気を振り絞ってユノさんを呼びに来た私を想って、家に飛んで帰ったのだ。
大袈裟に考え過ぎているだけだと、私を帰らせることなんて絶対にできなかったのだそうだ。
「ユノさん、ただ事ではないって顔してたよ」
「俺の演技はなかなかのものだっただろ?」
「うん」
この話題が出る度、私は頬かむりをしたチャンミンの姿を思い出すのだ。
本当に可愛らしかった。
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]