(75)時の糸

 

 

(痛いだろけど堪忍な)

 

ユノはチャンミンの頬を、ちょっと痛いかな、と心配するくらい強めに張った。

 

「う...ん...」

 

まぶたが震える。

 

(やった...!)

 

「チャンミン!」

 

「ん...」

 

「おネンネする時間はまだ早いぞ!

起きろ!」

 

ぱちり、とまぶたが開く。

 

チャンミンは、まばたきを繰り返す。

 

しばらく視線を彷徨わせていたが、ユノの腕の中の頭を持ち上げると...。

 

「あ...れ?

ユノ?」

 

と、うつろな眼でユノを見上げた。

 

「ど...したの?」

 

「......」

 

天井の照明がまぶしいのか、目を細めた。

 

「まぶし...」

 

「ど...ど...ど...。

『どうした?』じゃねーよ!!」

 

きょとんとしたチャンミンの様子に、パニック状態だったユノの緊張は解け、代わりに怒りが湧いてきた。

 

「馬鹿たれ!!!

どんだけ心配したと思ってんだ!?」

 

「あ...れ?

僕...」

 

チャンミンは半身を起こして、周囲を見渡し、倒れた拍子に打った頭をさする。

 

状況把握に時間がかかっているようだ。

 

「チャンミンの馬鹿やろう!!」

 

「...ユノ?」

 

ユノの顔がくしゃくしゃにゆがみ始めた。

 

「心配したんだよ?

てっきりかくれんぼしてるかと思ってて...。

っく...。

そしたら、床に転がってるじゃん。

つまづいじゃったよ。

...っく。

死んじゃったんかと思ったんだぞ?」

 

「...ユノ」

 

「うわーん」

 

ユノが天井を仰いで泣き出した。

 

「ユノ...」

 

チャンミンは、大泣きするユノをどうすればいいか分からず、数秒ほど見つめていたが、

 

「泣かないで。

ユノ...」

 

チャンミンは腕を伸ばすと、ユノの頭を引き寄せた。

 

「ユノ?」

 

「うわーん」

 

チャンミンの胸を、ユノの涙が濡らす。

 

(こんなシチュエーション、前にもあったな。

僕が風邪をひいて仕事を休んだ日の夜だ。

僕を心配して「不法侵入」してきたユノが、今みたいに泣いていた)

 

チャンミンはユノの髪を撫ぜる。

 

背中にまわされたユノの腕に力がこもる。

 

(あの時の僕はどうしたらいいか分からなくて、戸惑ってた)

 

手の平の下のユノの頭が小さくて、ショートヘアの黒髪が柔らかくて、チャンミンの心に温かいものが灯る。

 

(ユノが僕を頼ってくれている)

 

チャンミンはユノの髪を撫ぜる。

 

泣いているせいで、手の平に伝わるユノの体温が高かった。

 

「心配かけて...ごめんな?」

 

「ふう...」

 

ひとしきり泣いたユノは、むくりと顔を起こした。

 

(よかった...泣き止んだ)

 

チャンミンはほっと息を吐く。

 

「...チャンミン」

 

「ん?」

 

「あんたさ...服を着なって」

 

「わあ!!!」

 

「裸になるのは、もうちょっと後にしな」

 

「......」

 

「まずは酒でも飲もうか」

 

 


 

 

~ユノ~

 

 

「...体調は...もう平気なのか?」とチャンミンは訊ねてきた。

 

「ん?」

 

「ほら、具合が悪そうだったから...事務所で...」

 

俺は口いっぱいに頬張ったスナック菓子をビールで流し込み、「ああ!あれね」と答えた。

 

他人への関心が低い「あの」チャンミンが、人の不調を察するとは成長したものだ、と感心していた。

 

焚火の炎を見てフラッシュバックに襲われた。

 

意識が遠のきぶっ倒れてしまったとは、チャンミンを心配させてしまうから言えない。

 

加えて、「どうして火が怖い?」の質問に答えられないから言えない。

 

俺の右足...くるぶしから下の義足の理由...子供の頃に遭った事故のことについては、先日チャンミンに説明した。

 

具体的な説明は、今のチャンミンには出来ない。

 

今夜、心配していたのは俺の方だった。

 

めらめらと揺れる炎にチャンミンが恐怖するのを想定して、Sに来てもらった。

 

それとなく注意を払っていたのに、呑気に飯を食べる姿に安心した。

 

この男...意外に神経が太い奴なのかもしれない。

 

俺の方がダウンするなんて!

 

「気分が悪かっただけ。

復活したよ。

じゃなきゃ今、バクバク食べてないだろう?」

 

「確かに...。

丸一日餌をもらえていなかった犬みたい」

 

「おい!」

 

ポップコーンをチャンミンに投げつけた。

 

俺を皮肉る言葉がレベルアップしてきてるのが、小憎たらしい。

 

「はははっ。

どう?

もう1本飲む?

取って来るよ」

 

額に当たって落ちたポップコーンを口に放り込むと、チャンミンは立ちあがった。

 

「いや、もういらない。

そんなことより...」

 

俺はチャンミンのスウェットパンツの裾を引っ張り、座るように促した。

 

「あんたの方こそもう大丈夫なわけ?

ぶっ倒れてたじゃん」

 

ごろりと横たわったチャンミンの姿を思い出すと、今でもぞっとする。

 

YKさんの登場やら、その時はなんともなくても炎のショックは大きくて、時間差でガツンときたんだ。

 

負荷がかかり過ぎて、頭のネジが吹っ飛んでしまったのでは?と。

 

「う...ん。

前も話したけど、頭の中がぐらぐらするんだ。

ぐらぐら、というか、ぐちゃぐちゃになるんだ」

 

そうだろうね、と心の中で相槌を打つ。

 

「僕の頭は問題だらけだ。

覚えていない。

まるで僕には過去がなかったみたいに。

忘れていってるんだと思う。

そこに、YKさんとかいう女の人が出てきて...僕のことを知っているって」

 

チャンミンはここで言葉を切った。

 

「ねぇ、ユノ」

 

そして胡坐を崩すと、身を乗り出してきた。

 

「本当に僕は知らないんだ、あんな人。

僕に抱きついてくるし...触って欲しくないのに...!」

 

四つん這いで俺の正面に近づいたチャンミンは、俺の肩に手を置いた。

 

「僕が覚えていないだけで、あの女の人と何かがあったってことだろう?

だって、泣いてた。

僕のことを『マックス』だって言い張っていた。

...僕とそっくりな人、といえば、『双子』しか思いつかない。

でも、僕には『双子』の兄弟っていたっけ?って。

そこで気付いたんだ」

 

チャンミンの苦し気にゆがんだ顔。

 

「ぞっとした。

僕は...僕の家族。

...分からないんだ。

父も母も、妹や兄がいるのかどうかも...思いつかないんだ」

 

苦しむチャンミンを前に、俺の呼吸も苦しくなった。

 

「...そうか」

 

俺はチャンミンのうなじを引き寄せて、小刻みに震える背中をさする。

 

「僕は...誰、なんだ?

忘れているだけなのかな?

...非現実的な考えも思いついた。

ある日突然、ぽんとこの世に送りだされた人間なのかな、って。

ほら、クローン人間ってあるだろ?」

 

むすりと無表情の下で、賢いチャンミンの頭は不安を増幅させ、ありとあらゆる可能性を思考していたのだろう。

 

「...クローン...じゃないよ」

 

苦しむチャンミンの為に、わずかな救いにしかならないだろうけど、真実のひとつだけを差し出してやった。

 

 

(つづく)

 

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