屋外は肌寒いのに、温室内の空気は日光に温められ、汗がにじむほど暑かった。
僕はユノと距離をとり、マスクもしていた。
(僕のポケットには常に、マスクと除菌ティッシュが入っている...これはユノの為だ)
ラムネは僕よりもユノの方に懐いているようだ。
ニンジンをついばむラムネを見つめる細めた眼、それは優しいものだった。
ユノが許せば、彼の指に乗ってピーピーさえずりたがってる。
ずっと世話をしてきたのは僕なのだけどなぁ、なんてくやしい気持ちは全く湧かない。
空っぽの温室、そこにはクラシカルな鳥籠、すりガラス色の小鳥、白皙の青年。
どこかの画家か写真家が、作品として切り取ったワンシーンのようだった。
「ドアを開けておこうか?」
密閉された空気は耐えがたいだろうと温室のドアを開け放った。
すうっと涼しい風が吹き込んだ。
僕はマスクをしたユノの風下に移動した。
ところが「お前はこっちだ」と、ユノと立ち位置を入れ替わることとなった。
逆じゃないのかなぁと思ったけれど、げっそりとしたユノの横顔に、判断力が鈍っているのだろうな。
「...どう?
ちゃんと眠れてる?」
ここに入所してきて以来、ユノの眼の下の隈は薄らいできているものの、相変わらず病人の顔をしていた。
ユノは未だ、悲しみを全開させていないんだ。
中庭から病棟へ戻るエレベーターの中で、ユノは話し出した。
「最近...その人の夢を見るんだ。
夢の中で、俺たちは生活をしている、旅をしている。
夢の中で、喧嘩をしたりヤってたりする。
夢の中で俺は、『そっちに行ったら駄目だ』って止めたくても声が出せない。
絶望して俺は目を覚ます。
隣にその人はいない。
もう一度俺は絶望する...」
昼間、僕の前では飄々としていても、部屋で一人きりになった時、号泣しているかもしれない。
...それはないか。
ユノの眼はいつも充血しているけど、それは寝不足のせいだ。
それならば、ベッドに寝転がり、虚しく切ないため息をついているかもしれない。
「夢に出てくると、悶々と苦しいものだろうけど、夢の形をとって発散できるっていうのかな?
僕はとてもいい兆候にあると思うな。
専門家でもないのに適当なことを言ってごめん。
これは僕の考えに過ぎないからね」
「いい兆候、か...」
ユノの視線が遠いものになった。
ユノは考え事をすると、瞳に宿っていた意志のようなもの...とても濃い黒色をしている...を手放して、曖昧な眼差しになる...まるで瞳孔が消えてしまったかのように。
・
「今日は疲れた...夕飯まで休むよ」
・
ユノの部屋のドアがパタン、と閉まった。
僕はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
亡くした最愛の人の夢を見てしまうのも、それに苦しめられるのも、当たり前のことだ。
次の恋をするなど、考えられない。
赤色に怯えているのは、ユノの結婚相手はおそらく不慮の事故で亡くなったのだろう。
血を沢山流して、ユノの腕の中で死んでしまったんだ。
緑色に塗りつぶされたドアの向こう。
ユノは帰るなり、服を脱ぎ、全身を除菌ティッシュで拭い、消毒スプレーを霧雨のように振りかけているだろう。
アクリル板とビニールシートに守られた、安全で清潔なベッドに横たわり、背中を丸めてぎゅっと目をつむる。
さっきの告白の答えを、ユノから貰っていない。
それでいいんだ。
今日の告白は、ユノからの回答が欲しくてしたものじゃない。
僕がどういうつもりでユノに近づいたのか、知ってもらいたかっただけだ。
僕の告白を無視している風には全然見えなかった。
何かしらの答えを出すには、その答えを導き出すために自身の感情を探らなければならない。
それどころじゃない今、僕の告白を一旦胸の中に仕舞って、保留にした。
ユノの優しさだ。
いつか余裕が出来た時に、胸の奥から取り出して、「どうしようか」と検討してくれたらいいなと思った。
僕は恋愛において、自己中だ。
僕の告白がユノの心に負荷を与えてしまったと、反省した。
・
いいアイデアを思いついた。
僕も『潔癖症』になればいい。
ユノの温室に入れてもらえる資格が欲しいから。
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(つづく)