~ユノ~
チャンミンはこのドアを開け、俺を追いかけてきた。
「お兄さん!」と背後から呼ばれてすぐに、俺は立ち止まった。
追いかけられることを、実は期待していた。
振り向いた先に、自由へと放したばかりの『犬』がいて、安堵と喜びの感情が押し寄せてきたのだ。
・
ところがその数か月後。
その安堵と喜びを手放さなければならない状況に、自ら陥った。
黙っていてもよかった。
愛する者には多くのことを知って欲しいと望む、俺の身勝手さが口を割った。
多くを語らず、人を寄せつけず、独りで生きてゆく...これまでの俺の生き方であり、これまでの理想像だった。
チャンミンに判断をゆだねていた。
チャンミンはその場で立ち尽くしていた。
当然だ。
思いがけない告白。
いわば囚われの身となっていたその場所に、俺が関わっていたことを初めて知ったのだ。
「『古巣』と言ったように、俺もこの店で『犬』をしていた」
畳み掛けるように、情報を追加した。
「......」
視線の行方も表情の変化も、吐息も全部、注意深く見守っていた。
チャンミンは店内を歩き回り始めた。
ライトの落ちた水槽に手を滑らせながら、店の奥へと歩いていく。
この店は間口は狭いが、奥行きある間取りをしている。
あの夜、店内は煌々と水槽の中で灯されたライトで明るく、熱帯魚専門店のようだったと思ったのだった。
俺がいた時よりもスペースに余裕があって格段にマシになっていた...人間を閉じ込める行為にマシもクソもないが...。
奥行き10メートルほどの店内に、通路を挟んで両側に水槽が奥へと並んでいる。
一番突き当りにライトアップもスペースも、大きく差をつけた水槽がある。
店一番の『犬』であったチャンミンはそこにいた。
俺の気を引こうと中指を立てていた。
当時の挑戦的だった眼の色も、今じゃ穏やかなものにと変わっていた。
GPS付きの黒革の首輪が、宝石付きのチョーカーへと代わっていた。
青白い肌もこんがりと焼けて、健康的になっていた。
チャンミンはガラスに額を付け、自身を閉じ込めていた水槽の中を覗き込んでいる。
床に敷き詰めた白いファーも薄汚く見え、廃業したペットショップの陳列ケースのようでうら寂しい。
チャンミンがいなくなった後、店一番へ格上げになった『犬』はいたのだろうか。
なんと悲壮な場所だろう。
俺はこの後、チャンミンから何を言れようと、全て受け止めると心に決めていた。
質問には残らず答え、弁解もしないと。
・
予想している展開はあった。
「お兄さんにはがっかりです」
客として店の個室で体面した時のように、小馬鹿にした醒めた眼で、俺を睨みつけるだろう。
怒りの眼だったらまだマシだ。
嫌悪の眼、不信の眼だったら辛いな、と思った。
「お兄さんは、サイテーです。
いい人ぶりたかったんですか?
突然自由にされて、『犬』たちは大きなお世話ですよ?」
「そうだ、すべては俺のエゴだ」と答えるしかないだろう。
そして、チャンミンは俺のもとを出ていってしまうだろう。
誰かの庇護の元じゃないと、生き抜いていけないくせに。
チャンミンはまだまだ、野生に戻れないのだ。
誰かに拾われて『犬』に類する身分に逆戻りするか、野垂れ死ぬか。
最低限の常識を身につけさせ、カタコトの外国人並みでもいいから文字を覚えさせ、体力をつけさせる。
俺がいなくてもぎりぎり生きてゆけるようになるまでは、そばに置いて守ってやらないと。
俺の元を離れていってしまうなら、十分な金も持たせてやろう。
豪遊の末、1か月も経たないうちに残高が底をつくような、そんな金の使い方はチャンミンはしないから大丈夫だ。
俺がチャンミンのためにやれるものは、金しかない。
~チャンミン~
お兄さんは僕がどんな反応を見せるのか、ドキドキしながら待っている。
そりゃあ、びっくりしたよ。
僕はお兄さんが心配しているほど、弱っちい男じゃないんだ。
タフなんだ。
タフじゃなければ、店一番の『犬』の座をキープできないよ。
真実を知りショックを受け、裏切られたような気持ちを抱いてしまう僕を、お兄さんは予想している。
あのね、僕は分かったんだ。
今まで内緒にしてきたお兄さん。
僕がショックを受けることを心配しているお兄さん。
僕がどんな反応を示すのか、固唾をのんで待っているお兄さん。
お兄さんこそ、優しく繊細な心の持ち主なんだ。
優しい心を持っているから、僕のことを心配できるんだ...僕なんかよりずっと。
僕は平気だよ、と早く教えてあげないと。
レジカウンターの横に立ち尽くすお兄さんのもとへ歩み寄り、僕は彼に抱きついた。
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]