ユノは鼻をすすると、僕にもたれていた身体を起こし、座り直した。
「遠い存在にしてしまったのは、俺のせいなんだ。
その人はあの世で、俺を求めていると思う。
忘れないで、って。
俺は『ずっと忘れない』って答えてやりたい。
...それなのに」
ユノはここで、深呼吸をひとつした。
「その人から離れていくのは俺の方なんだ。
冷酷だろ?
まだ一か月も経っていないんだぞ?」
マスクで鼻下を隠しているせいで、眼光の鋭さが際立っていた。
30センチの間近で見つめられて、ユノの中に取り込まれそうだった。
僕の頭に、僕とユノの間に眼光の一本線が出来ているイメージが浮かんだ。
その人がユノのことを愛した理由が、分かった気がした。
ゴーグルやマスクで覆っても、ユノの美青年っぷりは隠せない。
ユノの潔癖さは人を寄せつけないし、彼の方から近づくことはない。
そんなユノのパーソナルな空間に、存在を許されるんだ。
...この世に存在するのは俺とあなただけ。
ユノと共に生きることとは、ユノのオンリーワンになることと同義。
「死にたくなるほど愛していたのにさ...集中できないんだ。
悲しむことに集中できないんだ。
...俺は混乱している」
ユノは引き寄せた両膝に、顔を伏せてしまった。
消灯時間はとっくに過ぎ、静か過ぎる室内に、ベッドのスプリングがきしむ音が耳に大きい。
「気になる人には「臭い」とか「汚い」とか思われたくない」
ユノは顔を伏せたまま、ぼそりと囁いた。
耳をそばだてていないと聞こえないほどの声量だった。
「...気になる...人?」
ドキっとした。
尋ねてみたかった。
「気になる人って...もしかして?」って。
喪失と向き合う場所にいるのに、ユノは悲しみに浸りきれずにいる。
そんな自分を咎めている。
自分は不潔なんじゃないかと恐れている。
特に、気になる人には不潔だと思われたくない。
その「気になる人」...って?
「気になる人...そうなんだ」
「ああ。
潔癖具合にムラが出てきた。」
ユノが言う通り、ダメだったり大丈夫だったりと、ユノの潔癖具合に一貫性がない時があった。
ユノの肩を抱いた僕の手に、ユノの手が重なった。
ユノがほのめかした言葉を素直に喜べなかった。
喪失感が深いあまり、おかしくなっているだけなんだ。
...ユノは寂しいのだ、ひとりでいたくないのだ、しがみつく胸が欲しいんだ。
僕は馬鹿だから、好きな人には近づきたいから、それでも構わないのだ。
弱っている今につけこんで、ユノに近づく僕は卑怯者。
今こうして、ユノの素手が手袋をはめた僕の手に触れてくれている。
・
電光時計が表示する時刻に、僕の背筋が伸びた。
「部屋に戻らないと」
施設のスタッフが2時間に1度、入所者が大人しく部屋にいるか見回りにくる。
部屋にいないと、よからぬことを考えていると誤解され、面倒なことになる。
特に、間もなく退所できる古株の僕と、入所したての新入りユノが一緒にいたりなんかしたら。
入所者同士の交流は自由だけど、照明を消した部屋でこそこそしていると誤解を生む。
「じゃあ、明日、ね」
ユノから身体を離し、僕は室内温室から出た。
「チャンミン」
呼び止められて僕は振り向いた。
すがりつく眼で僕を見ているけれど、ユノの視線は僕を通り過ぎたところにある。
亡くした最愛の人を、僕の中から探している。
僕に恋しかけてると錯覚している。
やっぱり...ユノはぬくもりが欲しいのだ。
ユノは僕の小箱に鍵をかけ、その鍵を飲み込んでくれた人だ。
僕はベッドまで引き返す。
薄暗がりに痛々しくゆがんだ、ユノの青白い顔が浮かび上がっていた。
僕はユノの頬を、触れるか触れないかのタッチで...まるでヒビが入った卵を扱うがごとく...包み込んだ。
どちらからともなく、僕らの顔は近づいた。
マスク越しのキスをした。
(つづく)
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