キスを交わして、目を合わせて、ふふふっと笑い合う。
ユノの頬を包み込もうとして持ち上げた手は、やっぱり膝に戻した。
僕の躊躇に気づいたユノは、僕の手をつかんで自身の頬へと誘導したけれど、僕は彼の肌に触れられずにいた。
ユノの口角が震えていたから。
僕はユノの片耳にぶら下ったままだったマスクを、元に戻してあげた。
「悪い」
「いいんだ」
喜ばしい事態になったのに、僕は複雑だった。
・
翌朝。
「起きろ!」
押し殺したドスのきいたユノの声と、鋭いノックの音。
(ここ数日間で、僕らの仲は劇的に変化したというのに、ユノはユノのままだった)
「入ってきてよ」
叫ぶと、ドアを開けてゴーグルとマスクを装着したユノが顔を覗かせた。
僕より早起きなユノにノックの音で起こされ、急かされるのはいつものことだけど、今朝の僕は布団にもぐりこんだままだった。
「風邪か!?」
と、慌てて枕元に駆け寄ろうとするユノに、僕は「作戦なんだよ」と言った。
駆け寄ると言っても、僕から数十センチ離れたところまでだった。
こんな程度で僕は傷つかない。
キスできる時もあれば、今のように完全防備であっても至近距離は無理な時もある。
あさイチでぎこちないだけで、隣で過ごしているうちにほぐれてくるだろうし、ただでさえユノの潔癖具合はぐらぐらに一貫性がなくなっている。
「ユノに話しておかないといけないことがあるんだ」
僕はベッドから出ると、椅子の座面に消毒スプレーを吹きかけた上で、ユノに座るよう勧めた。
「あらたまった話か?
...なんだか、怖いな」
と、いぶかし気な表情でユノは素直にその椅子に腰を下ろした。
そして、ゴーグルを外した。
目の周りにゴーグルの痕がぐるりと付いていて可愛らしかったけど、指摘するのは次の機会に回すことにした。
「今日からしばらく、僕は具合が悪くなるから」
「?」
「風邪や腹痛とかじゃなくて、目茶目茶落ち込んだ状態になるから」
「?」
「平気そうでいたのに、突然、婚約者のことを思い出して、ずどん、と落ち込んでる状態だ。
部屋に閉じこもったまま出てこない。
当分の間、僕はそうなるから。
なぜだか分かる?」
無言のユノは僕が沈み込んだ状態になる理由について、考えを巡らせているようだった。
「僕はここに3年いた。
よくなったから、退所を促されたんだ」
「いつ!?」
ユノは勢いよく立ち上がった。
「ほら、大暴れした日だよ、食堂で。
ユノが押さえてくれた日」
「...だいぶ前のことじゃないか?」
「そうだよ。
あの日、LOSTを数日以内に出るようにとお達しがあったんだ。
それで目の前が真っ暗になってしまって...」
「...そうか」
ゴーグルの下の眼は落ち着かなげに泳いでいて、その動揺の様子に、「ああ、ユノは本当に僕を必要としている」と嬉しさ半分悲しさ半分の心境になった。
「ほら、座ってよ。
...まず最初に頭に浮かんだのはユノのことだ。
離れたくなかった。
せっかく仲良くなりかけていた頃だったからね」
正気を失っていたくせに、頭の片隅はしんと冷静だったことは内緒だ。
ユノは僕を落ち着かせようと抱きしめてくれた。
さらには、心の小箱に鍵を締めてくれた挙句、その鍵を飲み込んでくれた。
一連の流れは全て、僕の頭に浮かんだイメージに過ぎないけれど、ユノも同じ映像を見ていたと思う。
あの時僕らは、同じ空間に居合わせ、同じ物質...僕の心の小箱...に同時に触れ合った。
その空間とは僕の心の世界。
そこへの立ち入りを許され、さらには僕のウィークポイントをさらけ出され、ユノはどう感じただろう。
「信用されている」と考えてしまっても仕方がない。
僕の責任だ。
限界までLOSTに留まって、ユノを支えないと...!
「僕はもう、LOSTにいる必要がないんだ。
社会復帰の時を迎えているんだよ」
「...そうか」
「でもね、僕はここにいたいんだ。
だって...だって、ユノと。
離れ離れになりたく...ない...から」
言葉のお終いは消え入り、僕はしばしの間、うつむいてパジャマのズボンを見つめていた。
「姑息な手段だけど、仮病を使うことにした。
スタッフの仕事は、入所者の観察だ。
僕の変化も、見逃さない。
『またぶりかえしたようですね、LOSTを出るのはまだ早いようです』と判断させるんだ。
...仮病っていう言い方も変だよね、僕らは病気じゃないんだから」
視線を元に戻すと、ユノはずいぶん難しい顔をしている。
卑怯な男は許さない、と言い出しそうだった。
「そういうわけだから...?」
「わかった」
ばしっと両膝を叩く音に、僕はとび上がった。
「俺も全面協力する。
チャンミンが出て行ってしまうと聞いて、とても残念な気持ちになったんだ。
喜ばしいことなのにな。
極めて狡いことだけど、俺にしてみたら大歓迎だ」
「よかった...。
もしかしたら暴れるかもしれないけど、心配しなくていいよ。
あ。
本当っぽく見せるために、心配したふりはしてね」
ユノは椅子から立ち上がると、ベッドの僕の隣に座った。
マットレスがぎしりときしみ、ユノの体重分沈んだ。
ベッドについた手と手が、小指と小指が触れ合わせた。
「俺も面談を受けて、早くここを出られるように努力するよ」
(つづく)
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