(7)ユンホ先輩

 

 

ユンホ先輩が放ってよこした薬袋は、受け取ってすぐ彼に押し返した。

 

「そこまでしなくても...。

言いたくないのなら黙っていていいですから」

 

僕に調べさせようだなんて...。

 

僕にとってのユンホ先輩は、大胆でポジティブそのものだったから、脆さが垣間見えてしまって哀しかった。

 

この哀しさは落胆、という意味じゃない。

 

外回りの日以外はほぼ毎日、1日8時間面を付き合わせている仲なのに、ユンホ先輩は脆さを気取られないようにしていたんだ。

 

6年間騙され続けていた自分も素直過ぎるけれど、さ。

 

傷ついた表情をしているだろうユンホ先輩を見たくなかったから、斜め横にちょこんと座る抱っこサイズの熊に向かって話した。

 

「ユンホ先輩は健康じゃない時がある。

だからこれからは、遅刻したり休んだりしても、全てがサボりだとは思いませんよ。

10回中1回は体調不良だと思っておきます」

 

「そりゃどうも」

 

「辛い時があったら僕に頼ってください。

代わりにできることは、力になりますから」

 

「...そっか。

ありがと」

 

ユンホ先輩は僕の言葉に落胆しただろう。

 

僕からの質問を待っていたのだから。

 

「僕なら大丈夫、全部打ち明けてください」と、胸を叩けなかった。

 

...ユンホ先輩、ごめんなさい。

 

今の僕じゃ力不足です。

 

受け止めきれません。

 

ユンホ先輩はとても大きな存在で、部屋に上げてもらった上に、秘密まで教えてもらって、喜びの洪水であっぷあっぷしそうなんです。

 

もう少し、時間をください。

 

 

「...存在自体、か」

 

先ほどのユンホ先輩の言葉をつぶやいてみた。

 

「...俺は...」

 

「はい?」

 

「このぬいぐるみ...異常だろ?」

 

「...はい、まあ...そうですね。

こつこつ集めたんですか?」

 

「こつこつどころか、一か月でばば~っと集めた。

部屋いっぱいに欲しかったから。

血眼になって探して、大枚払って集めに集めた」

 

そうだろうな、これだけの数を集めるには相当な額が必要だっただろう。

 

「どうして熊のぬいぐるみなんです?」

 

「たまたま、それだっただけ。

集めるものは何だっていいんだ。

欲しいと思ったら止められない、一直線だ。

熊の前はスニーカーを集めていた」

 

「そのスニーカーは?」

 

「捨てた。

異常だよ」

 

その後の僕らは無言だった。

深追いしなかった僕のせいだ。

でも、これだけは伝えておかないと、と思った。

 

「先輩」

「んー?」

 

「僕、先輩のこと馬鹿になんかしてません。

そりゃあ、呆れることはありますよ。

肝心な時にいなかったりして、ムカつくこともあります。

正直に言っちゃうと、ちょっとだけ小さく小馬鹿にしてたかもしれません」

「それが嫌だったんだよ」

 

つんと口を尖らせたユンホ先輩が可愛くて、くすりとしてしまった。

 

「『小馬鹿』っていう言い方が悪かったですね。

『やれやれ、仕方がないなぁ』って、呆れてる感じです」

「呆れて当然だよ」

 

ユンホ先輩にしてみたら、相手にため息をつかせることイコール、馬鹿にされている風に捉えてしまうのだろう。

 

「...ユンホ先輩は。

強引だし、いい大人が遅刻ばっかりしてるし、サボってアイス食べてるし。

ムカつく客には容赦ないし」

「......」

 

「すごくカッコいいのに変わり者過ぎて、うちの女性陣からは全然モテないし。

ぬいぐるみの部屋に住んでるし...びっくりですよ」

 

「......」

 

「そんなユンホ先輩が面白くて...僕。

僕、好きですよ。

別にそのままでいいじゃないですか。

僕は今のユンホ先輩しか知らないんですから」

「...そっか」

 

18℃に設定した室内は涼しく、さらさらに乾いた肌に触れるふわふわの毛皮が気持ちよくて、うとうとと眠くなってきた。

 

「ここで昼寝してゆけよ」

「はい」

 

僕は素直に頷いた。

「布団代わりだ」とユンホ先輩は僕の上にぬいぐるみを積んでくれた。

 

「ぬいぐるみに埋もれる会社員...シュールで可愛いよ」

 

ユンホ先輩の手が伸びてきて、僕の前髪をくしゃっとした。

やる時はやるし、優しいし、ランチは2回に1回は奢ってくれるし、僕より年上なのに肌はきめ細かいし、すっきり涼し気な目元に鼻も高いし...。

 

なんだよ、最高じゃないか。

 

 

目覚めた時は夕刻で、真夏の日没までには2時間はあった。

蝉の鳴き声はいくぶん、大人しめになっていた。

ユンホ先輩は窓の桟で頬杖をついて外の景色を眺めていた、ぼんやりと。

そして、ワイシャツは脱いでしまっていて、白いTシャツ姿になっていた。

欅の枝葉が、ユンホ先輩の白い顔にまだら模様の影を作っていた。

手をいっぱいに伸ばせば欅の枝に届きそうだった。

 

「起きたか?」

 

僕の気配にユンホ先輩は振り向くと、にっこり笑った。

 

「はい」

 

僕はぬいぐるみの中からもぞもぞ起き出して、ユンホ先輩の隣に腰をおろした。

 

「大自然で暮らせたらいいなぁ。

こんなゴミゴミしたところじゃなくってさ」

「僕もそう思います」

 

濃い緑色の葉が、眩しく熱い西日を遮ってくれていた。

 

「虫が苦手なら難しいんじゃないかな?

田舎は虫の王国だぞ」

「その気になれば、殺虫剤に囲まれて住みますよ」

 

「何万匹も目にしているうちに、素手で捕まえられるようになるさ」

「何万匹...怖いこと言わないでくださいよ」

 

ユンホ先輩のぬいぐるみの部屋を訪ねたのは、この夏の日の1回きりだった。

 

 

薬袋に印刷された薬名は調べなかった。

うろ覚えだったし、知ったところでどうしようっていうんだ?

調べるべきだったんだろうと思う。

ユンホ先輩は知られたがっていた。

後になって僕は気が付いた。

その時は聞き流していた言葉。

 

『家族や恋人以外には絶対に知られたくないこと』って言っていたじゃないか!

 

ああ、僕の馬鹿馬鹿。

 

 

(つづく)