ユンホ先輩が放ってよこした薬袋は、受け取ってすぐ彼に押し返した。
「そこまでしなくても...。
言いたくないのなら黙っていていいですから」
僕に調べさせようだなんて...。
僕にとってのユンホ先輩は、大胆でポジティブそのものだったから、脆さが垣間見えてしまって哀しかった。
この哀しさは落胆、という意味じゃない。
外回りの日以外はほぼ毎日、1日8時間面を付き合わせている仲なのに、ユンホ先輩は脆さを気取られないようにしていたんだ。
6年間騙され続けていた自分も素直過ぎるけれど、さ。
傷ついた表情をしているだろうユンホ先輩を見たくなかったから、斜め横にちょこんと座る抱っこサイズの熊に向かって話した。
「ユンホ先輩は健康じゃない時がある。
だからこれからは、遅刻したり休んだりしても、全てがサボりだとは思いませんよ。
10回中1回は体調不良だと思っておきます」
「そりゃどうも」
「辛い時があったら僕に頼ってください。
代わりにできることは、力になりますから」
「...そっか。
ありがと」
ユンホ先輩は僕の言葉に落胆しただろう。
僕からの質問を待っていたのだから。
「僕なら大丈夫、全部打ち明けてください」と、胸を叩けなかった。
...ユンホ先輩、ごめんなさい。
今の僕じゃ力不足です。
受け止めきれません。
ユンホ先輩はとても大きな存在で、部屋に上げてもらった上に、秘密まで教えてもらって、喜びの洪水であっぷあっぷしそうなんです。
もう少し、時間をください。
・
「...存在自体、か」
先ほどのユンホ先輩の言葉をつぶやいてみた。
「...俺は...」
「はい?」
「このぬいぐるみ...異常だろ?」
「...はい、まあ...そうですね。
こつこつ集めたんですか?」
「こつこつどころか、一か月でばば~っと集めた。
部屋いっぱいに欲しかったから。
血眼になって探して、大枚払って集めに集めた」
そうだろうな、これだけの数を集めるには相当な額が必要だっただろう。
「どうして熊のぬいぐるみなんです?」
「たまたま、それだっただけ。
集めるものは何だっていいんだ。
欲しいと思ったら止められない、一直線だ。
熊の前はスニーカーを集めていた」
「そのスニーカーは?」
「捨てた。
異常だよ」
その後の僕らは無言だった。
深追いしなかった僕のせいだ。
でも、これだけは伝えておかないと、と思った。
「先輩」
「んー?」
「僕、先輩のこと馬鹿になんかしてません。
そりゃあ、呆れることはありますよ。
肝心な時にいなかったりして、ムカつくこともあります。
正直に言っちゃうと、ちょっとだけ小さく小馬鹿にしてたかもしれません」
「それが嫌だったんだよ」
つんと口を尖らせたユンホ先輩が可愛くて、くすりとしてしまった。
「『小馬鹿』っていう言い方が悪かったですね。
『やれやれ、仕方がないなぁ』って、呆れてる感じです」
「呆れて当然だよ」
ユンホ先輩にしてみたら、相手にため息をつかせることイコール、馬鹿にされている風に捉えてしまうのだろう。
「...ユンホ先輩は。
強引だし、いい大人が遅刻ばっかりしてるし、サボってアイス食べてるし。
ムカつく客には容赦ないし」
「......」
「すごくカッコいいのに変わり者過ぎて、うちの女性陣からは全然モテないし。
ぬいぐるみの部屋に住んでるし...びっくりですよ」
「......」
「そんなユンホ先輩が面白くて...僕。
僕、好きですよ。
別にそのままでいいじゃないですか。
僕は今のユンホ先輩しか知らないんですから」
「...そっか」
18℃に設定した室内は涼しく、さらさらに乾いた肌に触れるふわふわの毛皮が気持ちよくて、うとうとと眠くなってきた。
「ここで昼寝してゆけよ」
「はい」
僕は素直に頷いた。
「布団代わりだ」とユンホ先輩は僕の上にぬいぐるみを積んでくれた。
「ぬいぐるみに埋もれる会社員...シュールで可愛いよ」
ユンホ先輩の手が伸びてきて、僕の前髪をくしゃっとした。
やる時はやるし、優しいし、ランチは2回に1回は奢ってくれるし、僕より年上なのに肌はきめ細かいし、すっきり涼し気な目元に鼻も高いし...。
なんだよ、最高じゃないか。
・
目覚めた時は夕刻で、真夏の日没までには2時間はあった。
蝉の鳴き声はいくぶん、大人しめになっていた。
ユンホ先輩は窓の桟で頬杖をついて外の景色を眺めていた、ぼんやりと。
そして、ワイシャツは脱いでしまっていて、白いTシャツ姿になっていた。
欅の枝葉が、ユンホ先輩の白い顔にまだら模様の影を作っていた。
手をいっぱいに伸ばせば欅の枝に届きそうだった。
「起きたか?」
僕の気配にユンホ先輩は振り向くと、にっこり笑った。
「はい」
僕はぬいぐるみの中からもぞもぞ起き出して、ユンホ先輩の隣に腰をおろした。
「大自然で暮らせたらいいなぁ。
こんなゴミゴミしたところじゃなくってさ」
「僕もそう思います」
濃い緑色の葉が、眩しく熱い西日を遮ってくれていた。
「虫が苦手なら難しいんじゃないかな?
田舎は虫の王国だぞ」
「その気になれば、殺虫剤に囲まれて住みますよ」
「何万匹も目にしているうちに、素手で捕まえられるようになるさ」
「何万匹...怖いこと言わないでくださいよ」
ユンホ先輩のぬいぐるみの部屋を訪ねたのは、この夏の日の1回きりだった。
・
薬袋に印刷された薬名は調べなかった。
うろ覚えだったし、知ったところでどうしようっていうんだ?
調べるべきだったんだろうと思う。
ユンホ先輩は知られたがっていた。
後になって僕は気が付いた。
その時は聞き流していた言葉。
『家族や恋人以外には絶対に知られたくないこと』って言っていたじゃないか!
ああ、僕の馬鹿馬鹿。
(つづく)