「緊急事態なんですよ!
照れは捨ててください!
そんなんじゃあ、聞こえません。
救急車も呼んでください!
ユノさん、急いで!」
「あの...せんせ。
さっきから俺ひとりでやってるっぽいんですけど?」
「僕とペアを組むとは、こういうことです」
「は、はあ」
(せんせ...俺だからスパルタ?
...悪くない...好きかも)
・
「では、本題の心臓マッサージを行います」
チャンミンとユノのマネキンの周りを、教習生たちは輪になって囲んでいる。
「音が鳴りますから、リズムに合わせて胸を押してください。
この辺り...です。
二人ペアの時は、このような流れで行います」
チャンミンはユノとバディを組むと、息を吹き込む側を自身が担当し、ユノに胸部圧迫を行わせた。
「役割を交代してみましょう。
ユノさんが呼吸担当です」
ここで、チャンミンは驚くのだ。
手こずる教習生が多い中、ユノは上手かった。
ユノがふぅ~と息を吹き込むと、気持ちがいいほどマネキンの胸が膨らんだ。
(うまい...上手すぎる!
ライフガードのバイトの経験でもあるのだろうか?)
ユノが息を吹き込み、チャンミンが胸を圧迫する。
とても初めて組んだとは思えない程、ユノとチャンミンは息ぴったり、相性がよかった。
「ユノさん...救急隊員になったらどうですか?」と、冗談交じりに言うと、
「へへへ。
俺、キスがうまいんですよ」
と、ユノも冗談で返した。
「えええっ!?」
「せんせ...。
俺がマネキンの代わりになっちゃおうっかなぁ...?」
「ぼ、僕をからかわないで下さいっ!」
チャンミンの顔は、ぽっぽと湯気を出しそうに真っ赤っかだった。
(ふふふ、チャンミンせんせ。
照れてますね...可愛い)
ユノの口元は、だらりと緩んだのだった。
・
21時のチャンミン宅。
茶色いタイルの10階建てマンションの6階。
湯上りの火照った身体に、開けた窓からそよぐ夜風が気持ちよかった。
チャンミンはだらしなくソファに寝転がっている。
いけないと思いつつも、つまみ無しでごくりごくりとビールを飲んでいた。
長身のせいで、ソファから骨ばった両脚がはみ出している。
(疲れた...)
チャンミンは昼間の応急救護教習を思い出していた。
ユノを意識するあまり挙動不審、大勢の教習生の前で失態を見せないよう、気を張らなければならなかった。
ところが、ユノの軽口に真正面から反応してしまい、動揺し大汗をかいてしまったのだ。
(ユノったら...もう...)
思い出すだけで、鼓動が早くなる。
(これ以上は飲み過ぎだ)
チャンミンは、4本目のビールを開けかけた指を止めた。
そして、頭を整理しようと、床に積み重なった洗濯物をまたいでベランダに出た。
「あ...」
くたりと頭を垂れた植物に気づき、慌てて水を与えたのだった。
(恋愛が絡むと僕はなんと弱いのだろう。
いろんなことが後回しになってしまう。
そりゃあ、仕事面でもパッとしなかったし、意欲も自信も無くしてたけどさ)
チャンミンは手すりにもたれかかり、通り向こうのマンションを眺めた。
部屋の半分に灯りが点いている。
(いい加減、男に振り回される生き方から卒業しないと!)
マンションが建つこの通りは店舗が少ないおかげで、夜間は騒がしくない点が気に入っていた。
前回の失恋の際は彼氏との思い出から逃れたくて、このマンションに引っ越してきたのだ。
今回の失恋では、ヤケを起こして引き払ったりしないでよかったとつくづく思う。
(偉いぞ、チャンミン。
男に依存しない生き方へ一歩、前進したかな?)
チャンミンは、マンション前の街路樹に視線を転じた。
葉が芽吹く初春から葉を落す初冬まで、この木々を眺めていれば季節の変化を感じることができる。
この点も、チャンミンがこの住まいを気に入っている理由でもある。
(...なんて言っていて、早速男に振り回されてるじゃないか...ユノという大学生に)
チャンミンは視線をさらに下へと転じた。
街灯がちょうどマンションの真ん前にあるおかげで、歩道は明るい。
チャンミンは目をつむり、ユノとの出逢いを思い出してみた。
(僕はいつの間に、ユノに心惹かれたんだろう)
初めての学科教習、チャンミンの真正面に陣取っていたユノ。
たじろぐほどの視線攻撃に「ずいぶんと熱心に見るんだな」と印象が焼き付いた。
恐らくその時に恋の種が蒔かれたのだろう。
失恋したばかりで心が塞いでいるはずなのに、無意識下で種が蒔かれていたのだ。
ノンケにフラれることには慣れていたし、ノンケに懐かれて嫌な気はしない。
憧れの混じった視線を浴びて、好き好き光線を浴び続ければ、次第とその気になるものらしい。
ただし怖いのは、その気になった矢先に梯子を外されることだ...。
チャンミンは無自覚であっても、初対面の時からハートは鷲掴みにされていたのだ。
(例の真夜中の尾行なんて、正気の沙汰じゃないぞ、チャンミン。
ユノへの想いを無視し続けるのは、いよいよ無理だ。
単純な話、ユノが早く卒業してしまえばいいんだ。
指導員と教習生...ってのが邪魔なんだ。
年齢差は無理でも、同じ土俵に立つ必要がある。
今は会社員と学生だけど、あと2年もすればユノもどこかに就職するんだし。
あ...!
僕ったら、付き合う前提で考えてるなぁ)
通行人はぽつりぽつり、周囲のマンションの住人たちだろう。
さらに、エントランスの照明が歩道を照らしているため、表情まではっきり見える。
「!!!!」
チャンミンは飛び上がった。
こちらを見上げる人物...若い男...シルエット。
6階の高さからは、自転車の色が赤色だとしか分からないのに、それにまたがる人物がユノだとチャンミンにははっきりと判別できたのである。
恋愛中のチャンミンは身体能力が各段にアップするのだ。
(ユノ!!)
チャンミンは身をのり出して、真下を見下ろした。
(どうして!?
ユノがここに!!
なぜ!?)
ユノとおぼしき人物は自転車を降り、エントランスの方へと移動してしまった。
(まさかまさかの僕の家を知ってる!?)
指導員が直に教えない限り、教習生が連絡先を知り得ない...当校では連絡先の交換は厳しく禁じられている。
(どうやって!?)
現状を理解しきれないチャンミンは、バルコニーをぐるぐる回っては、手すりの向こうを見下ろした。
(こうしていられない!)
チャンミンはベランダサンダルを脱ぎ捨て、室内を通り過ぎ、サンダルをつっかけて部屋を飛び出した。
(やばっ!)
ドアが閉まる直前に、シューズBOXの上の鍵を掴んだ(全室オートロックのマンションなのだ)
よれよれのTシャツとハーフパンツ姿だったが、構わない。
エレベーターを待っていらず、階段を駆け下りた。
一体チャンミンは、ユノを追いかけてどうするつもりだったのだろう。
ユノに追いついたところで、何を話せばいいのだろう?
追いかけずにはいられなかっただけだ。
(そんなこと、その時考えればいい)
エントランスの向こうは無人だった。
(いない!)
チャンミンが6階分の階段を駆け下りる間に、ユノはここを立ち去ってしまったようだ。
(捕まえないと!)
自動ドアが開くのももどかしくて突進したものだから、ガツンと肩にドアがぶち当たった。
それに構わずチャンミンは、マンションの外へと飛び出すと、通りの左右を見渡した。
ユノは自転車だから、間に合うはずはない。
「もう行っちゃったか...」と諦めかけたその時...。
ここからビル4棟先にコンビニエンスストアがあり、そこにユノのものとおぼしき自転車が停めてあった。
フレームが赤色だ。
「よかったぁ」
チャンミンは迷うことなく、コンビニエンスストアまで駆けて行ったのだった。
(つづく)
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