「...イヤよ。
イヤ...イヤ!」
Qはぶんぶん首を振った。
「イヤと言われても...。
Qのことは妹みたい 友達としか思っていなかったよ」
「でも私たち、すごく仲いいじゃない。
私の友だちも、『付き合ってるみたい』って言ってたのよ?」
「飯や飲みには一緒に行っていたから、そう見られていても仕方がないさ」
「海にも行ったし、買い物にもしょっちゅう一緒に行ったし!」
「う~ん。確かに、付き合っているのと変わらないよな」と、Qの挙げる例を聞きながら、ユノは心の中で頷いていた。
「ユノんちに泊まったこともあったじゃない!」
「あれは、部屋の鍵を失くしたからだろ?」
(実は、ユノとQとの間でそういう出来事があったのである)
「泊まっただけじゃん。
何もなかったじゃん」
ユノの言う通りである。
その夜、何かがあったのだけど、ユノは酔っ払っていてそれを覚えていないわけではない。
男と女が狭い部屋に2人きり...何が起こるかはご存知の通り。
でも、何もなかった。
下戸に近いユノは完全なる素面で、その夜のことははっきり記憶している。
Qを自身のベッドに寝かせ、自分は壁にもたれてゲームに没頭することで朝まで過ごすことにした。
ユノの方に向けたQの背中から、自分を襲って欲しい期待がびんびん伝わってくる。
ユノをベッドに引きずりこむだけの強引さは持ち合わせていなかったQも、そうそう悪い子ではない。
男だもの、多少のムラムラはあった。
(付き合ってもいないのに手出しするわけにはいかない。
関係を持ったから付き合うことになるとか御免だ)
指一本触れなかったユノもよく頑張った。
「何もなかったから、友達止まりって言いたいんでしょう?」
Qの低くて、押し殺した声。
「......(そうです)」
待合室に居合わせた教習生たちは、居心地が悪くなって部屋を出ていた者もいれば、野次馬根性で居続ける者もいた。
注目を浴びていることなど気にならないほど、二人の空気は緊迫していた。
「...ユノは私をコケにした」
「えっ、何だって?」
Qの声は小さくて聞き取れず、ユノは訊き直した。
「私を馬鹿にしてたってことよ!」
「馬鹿になんてしてないよ。
ごめん...Q。
曖昧にしてきた俺が悪いんだ」
「私をその気にさせておいて!
もぉ、知らない!」
Qはくるっと踵を返し、待合室から走り去っていった。
ユノはエントランスの自動ドアが閉まるまで見送るだけにとどめ、Qを追いかけなかった。
追いかけて引き留めて、慰め言葉はQに期待を持たせるだけだからだ。
そこまで考えが及ぶのに、チャンミンに対しては、恋の初心者になってしまうのだ。
「はあ...」
待合室の方へ向き直ると、二人の様子をヒヤヒヤワクワク盗み見していた者たちは、慌てて目を反らした。
(修羅場だった...。
でも、俺が全部悪い)
今すぐ学校を出たら、途中でQに追いついてしまいそうだったため、しばらくここで時間を潰すことにした。
目の前の掲示板に、検定日程表が貼り出されている。
(“見極め”が済んだら、いよいよ検定かぁ。
実地と学科を通過すれば、先生と生徒の関係からも卒業だ。
せんせと別れるのが嫌で、引き延ばし作戦をとってきた俺...アホだ。
ただの男と男になった時、俺がやらねばならないこととは...ムフフ)
チャンミンを想うと、すぐに気持ちを切り替えられるユノだった。
何の気なしに、視線を階段の方へ向けた。
待合室と階段に繋がる廊下はガラス窓が仕切っていている。
「!」
そのガラス窓から、階段をゆっくりと下りてくるチャンミンが見えた。
(せんせ!)
この時限は、チャンミンは検定前の模擬テストの試験官だった。
試験中の50分間、事務所で書類仕事をしようと下りてきたのだ。
(あ...これはもしかして)
ガラス窓越しでも、ユノの視線はチャンミンに届いていた。
斜め下に、にっこにこのユノの笑顔が待っていた。
「ユノさん!?」
夜間教習時間中の廊下は静かで、階段を駆け下りるチャンミンの靴音がよく響いた。
心の底から喜んでいる自分がいることを、チャンミンははっきりと自覚した。
「せんせ!」
ユノは待合室を飛び出し、チャンミンと合流する。
「せんせは今夜、暇ですか?」
「暇...暇ですけど...」
これはお誘いだと、チャンミンはすぐにピンときた。
「俺...今夜は23時にバイトが終わるんす。
その後、あのコンビニに行こうかなぁ、って思ってて。
で、その時間、せんせは暇してるかなぁ、と?」
好き好きアピールだけでは何も進まないことを悟ってからのユノの行動は、目的を伴ったものとなっていた。
「それは...」
チャンミンは頷きたかった。
(でも...)
指導員と教習生は、学校を離れた場所で、個人的に会ってはいけない規則になっている。
「せんせの予定を訊いちゃってすみません。
聞き流して下さい」
「......」
(やっぱりね)
断られることは予想していても、それなりにがっかりしてしまう。
ユノはそれを誤魔化そうと、うなじや二の腕をしきりと撫ぜていた。
「俺はバイトの後に『あの』コンビニに寄ろうと思ってるって。
ただそれだけを、言いたかっただけです」
「ユノさん...」
「それだけです。
前みたいに電話番号を聞くとか、せんせを困らせたくないんだけど...」
「......」
無言で俯くチャンミンを前に、ユノは耐えられなくなった。
(せんせ、困ってる)
『それはできません』の断りの言葉は聞きたくなかった。
「じゃあ、せんせ。
お疲れ様で~す」
ユノはさっきのQのように、勢いよく踵を返すと正面玄関へと走り出した。
「ユノさっ!」
ユノはチャンミンの呼び声が聞こえていない様子で、すっかり日の暮れた外へ飛び出して行った。
と、その足に急ブレーキをかけた。
(ダメ元で、もうひと押ししよう)
これまでユノは、チャンミンへの気持ちをオープンにしてきたつもりだった。
より分かりやすく、行動を伴ったプッシュをしないといけないと決意した、最初の一歩が連絡先の交換だ。
あいにくそれは、拒まれてしまったが、指導員と教習生の関係がNGなだけで、ユノ自身が否定されたわけじゃない。
まるちゃんの言葉を思い出した。
チャンミンの部屋(があると思われる辺り)を、見上げるだけじゃ我慢できない。
(俺はせんせを落としてやる!)
ユノは引き返すと、閉まる間際の自動ドアからひょこっと顔を出した。
「おっと!?」
チャンミンが自動ドアのすぐそこに立っていたのだ。
どうやら、ユノを追いかけてきたようだった。
「ユノさん」
「せんせ」
いい年をした男ふたり、てへへと照れて頭をかいた。
「あのコンビニは僕の行きつけのところでして...。
夜食を買いに、毎日のように行ってます」
毎日とまではいかないが、最寄りで行きつけの店であることは確かだった。
「そうなんですか!」
チャンミンの言葉に、ユノの顔がぱあぁぁっと輝いた。
ユノに恋するチャンミンは、その光の眩しさに目を細めないといけないくらいだった。
「俺も、そのコンビニはバイト先に近いし、しょっちゅう寄るんですよ」
ユノの言葉も、「しょっちゅう」とまではいかなくても、嘘は言っていなかった。
「俺のバイト、23時に終わるんで、コンビニへは23時15分になりそうです」
(せんせを困らせたくない。
俺は今夜の予定を言っただけだ。
せんせを誘ったわけじゃない。
せんせはセーフだ)
「あの~、すいません」
教習本を胸に抱えた教習生が、おずおずと声をかけてきた。
見つめ合う2人がドアの前で立ちんぼしているせいで、通行人の邪魔をしていたのだ。
「ごめん」
「すいません!」
ユノとチャンミンは、脇に飛び退いた。
「じゃ、俺。
バイトがあるんで!」
ユノはトートバッグを肩にかけ直すと、チャンミンにぺこりと頭を下げた。
チャンミンはわずかに上げた手を、小さく振った。
(今から23時までどうやって時間つぶそう)
Qとの約束のために、ユノは予定を空けていたのだった。
(つづく)
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