教習車は校門を抜け、学校建屋へのスロープを上り、乗降場所に停車した。
ユノの運転は丁寧で、シートベルトが胸に食い込んでしまうような、荒っぽいブレーキ操作はもうしない。
「ふうぅぅ...」
大きく深呼吸をすると、緊張で強張っていた全身から力が抜けた。
1時間、ハンドルをきつく握りっぱなしの手は汗でぬるぬるし、なかなか緊張からほどけてくれない。
「...せんせ...どうすか?
“見極め”に進めそうすか?」
ハンドルを握ったままのユノは、そろりと助手席のチャンミンの顔色を窺った。
(俺は次の卒検を受検したいんだ!
これ以上、補習を受けたくないのだ!
せんせと早く恋を始めたいのだ!)
今日はチャンミンによる最後の教習だった。
これまで何百人と教え子たちを卒業させてきたチャンミン。
教習指導員人生の中で最も教えがいがあり、指導に熱が入った(...恋もしちゃった)教え子が、いよいよ巣立つとき。
(ようやくここまで到達できた。
あ~、よかった。
でも、とても寂しい。
寂しくて泣きそうだ)
チャンミンは達成感と寂寥感が半々という、複雑な心境だった。
ふと、ユノへ少し意地悪をしてみたくなり、顎をつまんで「う~ん」と唸ってみせた。
「えっ!?
駄目っすか!?
どこが、どこが悪かったっす!?」
今日の教習で“見極め”に進めるとばかり思っていたユノだった。
ユノの頭の中にカレンダーが現れた。
(補習となると今週はバイトが詰まっているから、来週しか受けられない。
来週中に“見極め”に進めたとしても、卒検は再来週になってしまう...!
不合格だったりして、その後の補習が1時限じゃ足りなければ、卒検はもっと後ろにずれこんでしまう!
せんせと始める恋愛が延期になってしまう!)
(※ユノの中では、チャンミンと交際することは既定事項となっていた。
まるちゃんとの会話のおかげで、愚かな自分があぶり出され、意識と感情の再確認をしたところ、『せんせがすげぇ大好き』の結論にたどり着いた。
チャンミンの発言を、以前は誤った基準...男が好きな貴方を好きだと告白している俺は男なんだから、OKしてくれるでしょ?精神...で捉えていたのが嘘のよう。
今では、チャンミンに向ける恋心は雲一つない快晴の空のよう。
ポジティブの塊となったユノは、チャンミンからよい返事をもらえるハズだと思っていた。
「OKして当然」と、「OKがもらえるハズだ」とは、意味合いが大きく違う)
深刻な表情で空を睨み、考え込み始めたユノに、チャンミンは慌てた。
「いいえ、とても素晴らしかったです!」
チャンミンのジョークが、早急な卒業を目指すユノにはハード過ぎたのだ。
「ユノさんの運転が上手くなって、僕は嬉しいです。
でも、これが最後だと思うと...こんなことを担当が言うべきではありませんが...寂しくなってしまって...」
チャンミンは首筋を真っ赤にさせて、ユノから目を反らしてそう言った。
「チャンミンせんせ...」
ユノの手がそろりと、チャンミンの膝の上の手に伸びた。
(ダメダメ!
教習車内でルールを破らせて、せんせを困らせたら駄目だ!)
と、心にセーブをかけつつも、その手を真っ直ぐ引っ込めるのもつまらない。
いたずら心がむくむく湧いてきたユノは、人差し指でチャンミンの手の甲をひと突きしてみた。
「ひゃん!」
チャンミンの小さく悲鳴をあげてのリアクションに、ユノの方が驚きの声をあげてしまったのだ。
「せんせ~、ビックリし過ぎ」
「そりゃ驚くでしょう」
チャンミンは手の甲をさすっている。
手の甲をひと突きされただけなのに、溜めに溜まった静電気が、一点にびりっと刺さったかのように、いつまでもジンジンした。
(僕はユノを意識している。
僕の身体は敏感になっている。
ほんのちょびっと触られただけなのに。
クラッチタイミング練習の頃が信じられない。
今やったら、反応してしまいそうだ!)
「すみません、悪ふざけしちゃいました」
「“見極め”でも卒検でも、落ち着いて運転すれば大丈夫です。
最初とは比べ物にならない程、上達しました」
チャンミンから「触らないで!」と叱られなかったことに、ユノの調子は狂う。
「せんせのおかげです...くっ...。
俺、こんなに運転が下手だったなんて、知らなかったっす。
せんせにはすげぇ、迷惑かけて...全然、うまくならないしさ。
何度もせんせの寿命を縮めたし...一度はひき殺しそうになったしさ。
せんせはちょいちょい毒のあること言うしさ。
中途半端な慰め言葉を言わないのが高ポイントだしさ。
ビシっとしてるのに、たまに後ろの髪の毛はねてたりさ。
靴下やネクタイがやたら可愛いしさ。
ペンをくるくるしてて、俺の急ブレーキでマットに落としちゃって、せんせはすげぇ焦って探すんだけど見つからなくて、俺の急発進でダッシュボードにおでこをぶつけたり...」
ユノは涙をこらえて羅列していった。
(他にもいっぱいありますよ。
恥ずかしくて言えないけど。
せんせったら、すげぇ綺麗な顔をしてるんだ。
何度も見惚れた。
照れたり、困ったり、ムッとしたり...いろんな表情が見たかった)
「よく覚えてますね」
チャンミンは、ユノが挙げていく出来事に腹をたてることなく、くすくす笑っていた。
「当たり前っすよ。
せんせとの教習は全~部、いい思い出です。
思い出をつくるために、免許取りにきたんじゃないんですけどね」
ユノは言おうか言うまいか迷ったが、チャンミンとの最後の教習だからと、思い切って口にすることにした。
「俺、せんせに会いたくて、この学校に入学したんですからね」
「知ってます」
チャンミンは、照れて顔を赤くさせることなく、さらりと事実を述べた。
(う~ん。
判断に迷う反応だ。
...そっか。
ここは教習車の中で、今は教習中。
せんせと俺は、先生と生徒。
プライベートじゃない。
危なかった、つい落ち込んでしまうところだった)
「ですよね?
ははっ」
車庫前には、教習を終えて戻ってきた教習車が並び始めている。
指導員からアドバイスを受け、次の予約を取り終えた教習生から降車していっている。
チャイムが鳴った。
「ユノさん」
「?」
ユノは、差し出されたチャンミンの手に一瞬、まごついてしまった。
「握手です。
握手しましょう」
「は、はい...」
ユノはおずおずと、遠慮がちにチャンミンの手を握った。
「今までお疲れ様です。
ユノさんなら大丈夫。
僕は遠くから応援しています」
チャンミンの細く長い指と、薄い甲に、ユノはキュンとした。
(せんせの手...可愛い!)
ぽぉっと夢心地になったユノは、チャンミンに急かされるまで、運転席に居座っていた。
・
3日後。
「チャンミン君」
事務所で採点中だったチャンミンは、先輩指導員に手招きされた。
(ユノのことだ)
チャンミンは、彼にユノの“見極め”をお願いしていたのだ。
「は、はい」
結果が悪かったのだろうと、沈みかけた気分で席を立った。
「どうでしたか、彼は?」
“見極め”は、つい前の時限で行われ、学校かバイトの予定があったのか、ユノは帰宅してしまって不在だった。
「ユノ君だけど...」
「駄目でしたか。
彼は緊張しぃな子なので」
クラッチの踏み方がうまくいかず、緊張度が高まるあまり泣いてしまった事があった。
「いや、駄目じゃないよ。
バッチリだったんだ」
「そうなんですか!?」
「よくあそこまで仕上げたね。
途中で放り出さずに、辛抱強く指導した結果だね」
「いえ...彼の努力の結果です。
途中でヤル気を失って、退校してしまう教習生が多いのに、彼は補習を受けてくれましたから」
チャンミンは、そう言って謙遜した。
ユノは早く卒業をしたい、チャンミンからいい返事を貰いたい一心だった。
(ヤル気スイッチが入り、運転テクニックに関する潜在能力が卒業間近になってやっと、顔を出したのかもしれない)
チャンミンはユノのヤル気スイッチが入ったきっかけが、自分であることをちゃんと認識していた。
あらためてユノの素直さに感心し、適当なことは口にしてはいけないと、気を引き締めた。
(ユノが真正面からぶつかってくるのなら、僕もそれ相応のリアクションを示さないと)
(つづく)
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