(せんせの馬鹿野郎!
俺の気持ちをどうして分かってくれないんだ!)
土砂降りの中、傘もささず、ずぶ濡れになって大泣きしている若い男。
前髪から水が滴り落ち、濡れた衣服を肌にはりつかせた美青年...極めて絵になる。
(馬鹿野郎、馬鹿野郎!)
斜め降りの雨に、すれ違う通行人たちは皆、傘を前方に深く傾けている。
(今の俺の姿...あの夜のせんせと一緒じゃん。
そっか...せんせはこんなに辛い気持ちを味わっていたんだな。
胸が張り裂けそうだよ...)
ユノは帰宅ラッシュの者たちをすり抜け、ぐいぐいと前に向かって歩いていたが、実際のところ、どこへ向かえばいいのかわからなくなっていた。
「さむ...」
腕に鳥肌がたっていた。
(早く身体を温めないと、風邪をひいてしまう。
明日は大切な卒検なんだ)
ぐちゃぐちゃな感情のまま、雨の中をやみくもに歩くのには、今は相応しくない時だ。
そう判断できるほど、ユノは冷静な男だった。
(せんせはこだわりに囚われているだけだ。
軽々しく付き合って欲しくない...そう言いたかっただけだ、きっと。
分かってるけど、やっぱりショックだったよ。
今はせんせに会いたくない。
頭を冷やして、学校を卒業してから会いたい)
体調を崩したことで、散々な検定結果になってしまったら困るのだ。
(せんせを悲しませてしまう)
チャンミンに『馬鹿野郎』と怒鳴ってしまったが、それで関係は終わってしまったとまでは考えていなかった。
カッカと頭に血が上っていたのが、あの場を離れて、雨に打たれているうちに冷静になってきた。
チャンミンがどんな意図をもってあんなことを言ったのか、分かったような気がしてきた。
(もしかして...)
ユノの感情は、思い煩ったり一気に突き進んだりとアップダウンが大きいが、本心を見失うことはない。
(それが、チャンミンの目を眩ませる、若さなんだろう)
冷静沈着に見えるチャンミンは、感受性豊かゆえに迷いと恐れで気持ちが揺れがちだ(その脆さがチャンミンの魅力でもある)
(はて...ここはどこだ?)
自転車は学校に置きっぱなしだから、バスか電車を使うしかない。
現在地を確かめもせず、チャンミンの車から飛び出してきてしまった。
最寄駅を調べようと後ろポケットを探った時、いやに身軽な自分に気づいた。
ユノの背筋がさーっと凍り付いた。
(NO~~~~~!!)
チャンミンの車に乗り込む時、確かに持っていたバッグが...ない!
ユノは手ぶらだった。
「マジ...マジかよ!?」
ユノは怒りと興奮で足元に置いたバッグの存在を忘れてしまい、そのまま車を降りてしまったのだ。
(せんせの車ん中だ!
どこかで落ち合って、持ってきてもらわないと!
それとも、せんせんちに直接行くか...)
「......」
(...無理だ、できない!!
今だけはせんせの顔を見られないし、俺の酷い顔を見られたくない。
『馬鹿野郎』って怒鳴られて、せんせこそ今は俺の顔を見たくないに決まってる!)
ユノは歩道からビルの軒下に移動すると、問題解決までの方法を思案し始めた。
バッグの中身は、財布、参考書、筆記用具とお菓子。
財布については幸いスマートフォンがあるから、大抵の支払いは済ませられるが、学生証が無いのはちょっと困る。
試験勉強は既に十分やってきたから、参考書は必要ない。
(大して慌てる必要は...ないかな?)
檻の中の熊のようにウロウロと、その場を行ったり来たりしながら、1つ1つ問題点を洗い出し、1つ1つ潰していった。
(んなことねぇ~~よ!)
最も無くてはならない物があった。
部屋の鍵だ。
自転車の鍵と一緒に、バッグの外ポケットに入れていたのだ。
つまり、ユノは自宅に入ることが出来ない。
(...これは非常に由々しき問題だ。
どうしよう...う~ん)
ユノはしばらくの間、腕を組んで唸っていたが、「決まりだ!」とうな垂れていた頭を持ち上げ。
(まるちゃんちに転がり込むしかないな。
俺って素晴らしい友を持ってるぜ)
ユノはマルちゃんのアドレスを呼び出した。
・
チャンミンはストレートに、心に巣食い始めた疑いと不安をユノに打ち明けていればよかったのだ。
『ユノと付き合いたいが、僕は沢山の不安を抱えている』と。
そうしたらユノは、口調は呆れた風だが、確実にチャンミンを安心させてくれる言葉をくれたはずだ。
「付き合ってもいないうちから、何言ってるんすか?
せんせは口に出していないだけで、心の中は心配ばかりでしょう?
俺はそう見ています。
当たりでしょ?
そんなんじゃ、禿げますよ?」
ユノの目にはチャンミンしか映っていないのに。
これまでのユノの行動を振り返ってみれば、チャンミンの心配は杞憂に終わるだろうに。
・
「ユノ...お前、酷い状態してんな」
ドラマCDを視聴していたまるちゃんは、本格派ヘッドホンをして出迎えた。
「いろいろあって...。
風呂貸してくんない?
服も貸して。
話は後でする」
「ったく、しょうがね~な~」
「宿泊費代わりにフライドチキンを買ってきた」と、揚げたてチキンの箱が入ったビニール袋をまるちゃんに手渡した。
・
「はあぁぁ、コタツはいいねぇ」
湯上りのユノは、ぬくぬくと顔半分までコタツにもぐりこんだ。
「おい!
コタツを揺するな!」
背中と膝を曲げてはいるが、長い脚がはみ出ている。
「腹減った。
肉食おう」
ユノはコタツから這い出ると、フライドチキンの箱を開けた。
「いいね、肉食おう。
クッキーの香りがする紅茶を手に入れたんだ。
淹れるよ」
「クッキーってお菓子のクッキー?」
「ああ、珍しいだろ?
いい香りなんだよ」
まるちゃんは湯を沸かし始め、ユノは小皿とカップの用意を手伝った。
食事の用意が整い、2人は「いただきます」と手を合わせると、いざ1本目のチキンレッグにかぶりついた。
「...フラれたのか?」
まるちゃんは、尋問を開始した。
「フラれてないよ」
「泣いてたじゃん」
「あれはな、哀しかったんだよ。
『男とヤレるか?』って俺に訊いたんだぜ?」
「『ヤる』!?
セックスのことか!?
単刀直入だなぁ」
「急にそんなこと言われたら固まるだろ?」
ユノは車内で交わした会話の内容を説明した。
「ヤレるかヤレないかが、付き合えるかどうかの条件じゃねぇ、って。
相手のことが好きならさ、その時になれば自然と出来るものじゃないの?
『けつの穴に挿れられないなら、僕とは付き合えませんよ』ってな感じの言い方だったんだ。
俺さ、すげぇムカついて、せんせに『馬鹿野郎』って言っちまった」
「やったじゃん」
「え?」
「よくぞ言った」
「なんで?」
まるちゃんに『先生に馬鹿野郎は無いだろう!?』と叱られるかと思ったら、真逆に褒められて、ユノはきょとんとしてしまった。
(つづく)
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