~僕が9歳のとき~
3月の卒業シーズン。
2人の下宿人が大学卒業のため、ここを引き払っていった。
その数日後、入れ替わりで新しい下宿人がやってくることになっている。
僕は母と一緒に、空き室になったばかりのその部屋の掃除をしていた。
部屋なら他にいくらでもあったが、この角部屋は一番日当たりがよく、他の部屋より2畳ほど広い。
三角巾で髪をまとめた母は、押し入れの戸を開け放ち、固く絞った雑巾で中段棚と床を拭いていた。
空き部屋が出る度、掃除をする母を手伝っていたから、指示がなくてもすべきことは分かっていた。
「チャンミン、届かないところは無理しないでね。
落ちちゃうからね」
「大丈夫だよ」
窓の外には欄干があるから、落下の危険は少ない。
(ユノがよく腰掛けて漫画本を読んでいるところ。体育座りをした僕ならば、すっぽりとおさまるミニサイズベランダ、といったところ)
窓ふき担当の僕は窓枠にまたがり、濡らした新聞紙を丸めたものでガラスを磨いたのち、タオルで乾拭きした。
この部屋の住人はヘビースモーカーだったらしく、タオルがヤニで茶色く汚れた。
「次はどんな人?」
新しい下宿人について、母に訊ねた。
変な人だったら嫌だなぁと思ったからだ。
下手くそなギターをかき鳴らす人、トイレの使い方が汚い人、女の人をしょっちゅう連れ込んで喧嘩が絶えない人、爬虫類を飼っていた人、借金取りが怒鳴り込んできた人...僕が知っているだけでも、これだけのバリエーションの人々が暮らしてきた。
母は白い割烹着姿で、僕も母手製のチェック柄のエプロンをしていた。
「今年も大学生よ。
好青年といった感じ」
「コーセイネンって?」
「爽やかで明るい...友達にしたくなるような人っていう意味」
「へぇ...」
正直、下宿人と僕との接点はほとんどないと言っていい。
僕みたいな子供に話しかけてくる人も滅多におらず、「ここんちの子か。お手伝いをよくする子だな」程度の認識だと思う。
「変な人だと嫌だなぁ」と思ったのは、掃除担当の僕の仕事を増やされたり...いや、僕よりも母に迷惑をかけるような行いの人だと、困るのだ。
(「愛想のないガキだな」とも思っていそうだ)
困り者の代表格は、家賃の滞納だ。
こんなオンボロアパートを選択せざるを得ない人々は、大抵は金銭的な問題を抱えている。
毎月末、母は電卓を叩いてはため息をついている。
何カ月経っても銀行に振り込まれない家賃、督促に出向いてものらりくらり、時によっては逆ギレ...追い出そうにも、女性による最後通牒は凄みが足りない。
こういう時に、男の人が...父なり兄なり...が居てくれるといいのだけど...。
強面だった祖父は脳梗塞を患い、痴呆も加わって、我が家に戻ってくることはもう無いだろう。
新しい下宿人は『好青年』というから、どうか母の第一印象通りの人物であって欲しい!
「新しい人は何時に来るの?」
「3時くらいですって。
ご実家からここまで5,6時間はかかるそうよ」
「へぇ、遠くに住んでいるんだね」
通りの角に桜の木を植えた家があり、春になると薄桃色の花びらがここまで飛んでくる。
ざ~っと春風が吹いた。
開けた窓から舞い込んだ数枚が、日焼けした畳の上にひらりと落ちた。
僕は窓から身を乗り出し、桜の木が植わっている方角を見た。
「荷物は?」
「家財道具が前もって送られてくるでもなし、車に積んでくるのかしらねぇ」
母は汚れた雑巾を茶色く濁ったバケツに入れると、「よいしょ」っと立ち上がった。
20歳で僕を産んだ母はまだ若いのに、仕事のし過ぎで腰を痛めている。
「掃除はこれくらいでよいでしょう。
窓は開けっぱなしでいいわ。
私たちはお昼にしましょうか?」
「うん」
「久しぶりに出前をとる?」
「いいの?」
「チャンミンがお手伝いしてくれたご褒美よ」
僕は「やった~」と飛び跳ね、母の手からバケツを奪った。
9歳になる頃には、突然の発熱で母に心配をかけることもほとんど無くなっていて、丈夫な身体になれたことが嬉しかったのだ。
「どんな人か楽しみだね」
こんなことを言っているけれど、人見知りの激しい僕は、物陰からこっそりと覗うんだろうなぁ。
12歳になった今も昔も、僕はすかした態度の可愛くない子供ではあるが、当下宿屋の住人となると、興味を覚えずにはいられない。
(案外、可愛らしい性格なのでは...?)
「そうね。
最後の下宿人になるかもしれないわね」
母は寂しそうにそう言った。
母はこの先の言葉を続けなかったが、「古くて時代遅れのここを好んで住む人なんて、この先現れるのかしら」と思っていただろうな。
「じゃあさ。
新しい人にずーっと住んでもらえば?
好青年なんでしょ?
学校を卒業しても、仕事をするようになってもずーっと、ここに住んでもらうの。
そうすれば、ずーっと家賃をもらえるよ」
なんと子供らしい、単純な思いつきだろうか。
・
新しい下宿人は手荷物ひとつでやってきた。
2時半頃から、僕は2階の空き部屋から通りの角を見張っていた。
タクシーでやってくるかと思ったら、彼は徒歩でやってきた。
すらっとした、若い男の人が桜の木の陰から姿を現わすなり、僕はひょいっと窓の下にしゃがみ込んだ。
そろそろ到達した頃かな、と見計らった僕は頭を乗り出し、空き部屋から真下を見下ろした。
門扉と玄関までの間に、2メートルばかりの角道があり、その半分は玄関のひさしに隠れて見えない。
(あ~あ)
ワンテンポ遅れたようで、彼の姿をキャッチするタイミングを逃してしまった。
それならば...と、僕は部屋を出て階段を途中まで下りた。
そして玄関が見えるか見えないかの所で腰を下ろした。
(僕からの視界ではそうかもしれないが、玄関にいる者からは、僕の膝から下までが丸見えになってしまっているとは、子供の頭では気づけていない)
「ごめんください」
「いらっしゃい」
母は奥から顔を出すと、いそいそと新しい下宿人を出迎えた。
声がワンオクターブ高いのは、イケメンで好青年だからか。
(よく見えないな)
今の位置だと、彼の腰から下しか見えない。
僕は1段、また1段と下りてゆき、ようやく彼の顔を拝めることができた。
(へぇ...)
僕は素早く観察した。
黒いキャップをかぶり、薄手のジャンパーとパーカー、淡色のデニムパンツと軽装で、肩に荷物で膨らんだショルダーバッグをかけている。
「息子さんですか?」
(僕のことだ!)
慌てた僕は、後ろ向きに階段を上ろうとしたけれど、靴下のせいで滑り落ちそうになった。
「危ない!」
母よりも、好青年の方が1歩早かった。
たったの2歩だけで僕のところまで駆けあがると、僕をキャッチした。
僕の間近に彼の顔があり、真正面から目が合った。
(へぇ...)
ヒヤリとしたばかりなのに、まじまじと彼の顔を観察する余裕はあったらしい。
(イケメンだぁ...)
ボキャブラリーが少なくて、うまく言い表すことが出来ないけれど、とにかくイケメンだった。
顔が整っているのは、窓から彼の姿を眺めていた時、遠目からでも分かった。
印象的だったのは、アジア人なのに眼の色が真の意味で、真っ黒だったことだ。
とっさに、吸血鬼みたいって思ってしまった(もちろん、吸血鬼なんて見たことはない)
瞳の奥に動物的なものを秘めている、っていうのかな?
だから、瞬間移動みたいに僕の目の前まで移動できたのかな、って。
「どこか、ぶつけたりしていないか?」
1段分だけ、お尻を打ち付けてしまっただけで済んだ。
(そのお尻はジンジンした)
「...うん」
僕は頷いた。
「もう...チャンミンったら、おっちょこちょいなんだから...」
「すみません...靴のままでした」
彼は僕を階段下に下ろすと、そこから一足で玄関のたたきに戻った。
「いえいえ、構わないんですよ」と母は恐縮がり、「うちの子の命の恩人です」とまで言っていた。
僕はささっと、母の後ろに隠れた。
「人見知りさんかな?」
彼は微笑んだ。
「そうなの。
でもね。
あなたがいらっしゃるのを楽しみに待っていたのよ」
(お母さん!)
僕は母のエプロンを引っ張り、余計なことを言った彼女にぷりぷりしていると...。
「彼はチャンミン君、って言うのですか?」と、彼から促され、母は自己紹介がまだだったことに気づいたようだ。
「この子は...息子のチャンミンです。
9歳ですが、ここの仕事をよく手伝ってくれます。
私は仕事で不在の時が多いので、行き届かないところが多いかと思います。
何かありましたら、遠慮なく言ってくださいね」
「父親は?」と不躾な質問を、彼は自己紹介の場でする真似はしなかった。
「よろしくね、チャンミン君」
彼は僕の身長に合わせて身をかがめて、挨拶をした。
「僕は『ユノ』といいます」
僕はさらに、母の真後ろまで隠れた。
(ふ~ん。
ユノって言うんだ)
僕はひょっこり目元だけ出して、ほんの1センチだけ会釈のつもりで、頷いてみせた。
「部屋まで案内しますね」
母は上階へと先だって行ったため、僕の全身がユノから丸見えになってしまった。
身をすくめていると、ユノはふっと笑い、僕の頭をくしゃっと撫ぜた。
そして、母を追って階段を上っていった。
当然僕も、ユノを追っていった。
(つづく)
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