(8)麗しの下宿人

 

「チャンミン君が俺の目の代わりになって」

 

ホームセンターからの帰り道、ユノはかさばる布団を抱え、僕はユノのジャンパーの裾をつかんでいた。

 

僕は布団で視界が遮られるユノのための誘導係だ。

 

「他に必要なものは、順番に揃えてゆくよ。

余裕ないから、いっぺんには無理だ。

チャンミン君のところは、朝ご飯が出るから助かるんだ」

 

1階に共同の炊事場があり、鍋やヤカン、先住民たちが残していった食器類が揃っているため、カップラーメンが食べたくなれば、ここで湯を沸かせばいいし、汚れた食器もここで洗えばいい。

 

さらには、おにぎりとお味噌汁、トーストとゆで卵と言った簡単なものだけど、朝食サービスがついていた。

 

「昔は夕飯も出てたんだって」

 

「うん」

 

下宿人が多かった時代の台所では、常に鍋で何かが煮込まれていて、湯気がたちこめていただろう。

 

物置部屋には、今でも大きな鍋や食器がたくさん残されていて、いつでもレストランを開けそうだ。

 

下宿人が減るにつれ家賃収入をあてに出来なくなり、母は勤めにでるようになった。

 

さらに祖父が倒れてしまい、勤め人の母にとって例え3、4人分であっても食事の用意は負担だった。

 

そして、夕食の提供を止めざるを得なくなった。

 

廊下を歩く足音、玄関の戸を開け閉めする音、階段下の電話が鳴る音...かつての姿、僕が知らない時代、さぞ賑やかだっただろう。

 

「お母さん忙しいから、今は作れないんだ」

 

「チャンミン君のお母さんは、他にお仕事してるんだ?」

 

「うん。

洗濯の工場に勤めてる」

 

「クリーニング屋?」

 

「もっと大きなところ。

シーツや布団を洗ってるんだって」

 

「大変そうだね」

 

ユノは布団を肩に担ぎあげると、空いた手で僕の背を押した。

 

「?」

 

「座って休憩しよう」と、僕を道沿いの公園へといざない、たったひとつだけのベンチに腰掛けた。

 

ユノはジャンパーのポケットから缶コーヒーを出して、その1つを僕に渡した。

 

ホームセンター前の自販機で、あらかじめ買っておいたものだろう。

 

「...コーヒー?」

 

「甘いやつだから、子供でも飲めるだろ?」

 

「...多分」

 

「無理だろうなぁ」と思いながら、缶コーヒーに口をつけた。

 

コーヒーは砂糖をミルクを沢山入れても、苦くて飲みづらい飲み物だと僕は知っていた。

 

 

大きなホテルのラウンジに僕は居た。

 

僕の目の前には、金属製のおままごと道具みたいに小さなミルクピッチャーと砂糖入れ、金縁のカップ&ソーサーがあった。

 

コーヒーが苦くて、角砂糖を1個、2個と増やしていっても、飲み頃の風味になってくれない。

 

不味いと口に出せないから、唇を湿らす程度にカップを口に運んでいた。

 

取っ手を持つ手が震えて、カップをソーサーに置く時にガチャンと大きな音をたててしまった。

 

その人はあからさまに嫌そうな顔はしていない。

 

でも、その目に一瞬嫌悪感がよぎったのを僕は見逃さなかった。

 

ぎゅっと心臓が縮こまり、直後身体が熱くなり、どっと汗が噴き出した。

 

天井から吊り下げられたシャンデリアがキラキラしていて、ガラスのテーブルに反射していた。

 

現実とは遠い世界、僕は場違いだ。

 

僕は、目の前の人の袖口で光るカフスボタンだけ見ていた。

 

居心地は悪いしコーヒーは苦いしで、あの場を早く立ち去りたかったのに、座ったソファの座り心地があまりによくて、僕は立ち上がれなかった。

 

...その時を思い出していた。

 

 

缶コーヒーは想像通りの味だった。

 

甘さの中に広がる苦さに顔をしかめてしまった。

 

「ゴメン。

やっぱ子供にはコーヒーは早かったか!

甘ければいいってもんじゃないなぁ」

 

無理して飲まなくていいと、ユノは言ってくれたけれど、僕は首を振り、時間をかけて全部飲み干した。

 

ユノの好意を無駄にしたくなくて...。

(10歳になる頃には、砂糖とクリームパウダーをいっぱい入れたインスタントコーヒーを飲めるようになった)

 

僕とユノは、布団を挟んでベンチに腰掛けていた。

 

キャップを脱いだユノが布団にもたれかかったことで、彼の頭が僕の目と鼻の先にあった。

 

艶のある、真っ黒な髪だった。

 

僕の髪色は生まれつき茶色くて、日に当たるとより明るく透けた。

 

この髪色のせいで、学校では嫌な思いばかりしている。

 

「あ~あ、疲れた~。

朝からずっと、バスと汽車に乗ってたから尻が痛い」

 

「...ユノさんは遠くに住んでいるって、お母さんが言ってた」

 

「ああ、遠いぞ。

すんげ~田舎だ。

どうだろ...6時間はかかったかなぁ」

 

「すご...」

 

僕はこの街を出たことがなかった。

 

下宿屋を留守にするわけにはいかないし、旅行に出掛けられるほどの余裕が我が家にはなかった。

 

「どうしてうちを選んだの?

マンション...とかに住まないの?

うちはボロいでしょ?」

 

古くてみすぼらしい家に住んでいることも、からかいの種だった。

 

こういうことって、小学生の心には結構堪えるものだと、大人になってからも当時の傷ついた自分の気持ちを思い出せる。

 

深い心の傷だ。

 

それから、代替わりにより新しく建て替えられてゆく家が増えたり、近所に市営住宅が出来たりして、我が下宿屋は周囲の景観にそぐわないと眉をひそめられているらしい...多分。

 

「ボロいってのは事実だなぁ。

ははは」

 

ユノはそうはっきり言うものだから、しゅんとしてしまった僕の頭を、彼は撫ぜてこう言った。

 

「でもさ、チャンミン君のところはいいところだよ。

下見に来たときからそう思ってたよ。

家賃からして、湿っぽくてゴキブリが這いまわっているようなところかと想像していたんだ」

 

「...そんなんじゃないもん」

 

「そう『思ってた』っていう話。

実際に目で見て驚いた。

木でできていてあったかい雰囲気があるし、綺麗にしているし。

他の住人がいないって言うから、俺の家みたいじゃん。

ま、金がないってのも大きな理由だけどね」

 

わが下宿屋を褒めてくれる人は、僕が知る限りユノが初めてだった。

 

シャイな僕は、「うん...」と頷いただけだった。

 

とっても嬉しかったのに。

 

「帰ろうか?

戸を直さないといけないし」

 

「うん」

 

「戸を直すとこ、見学してもいい?」

 

「もちろんさ」

 

ユノは立ち上がると、再び布団を抱えた。

 

僕はユノのジャンパーの裾をつかんだ。

 

 

しばらくの間...1か月近く、気恥ずかしくてユノの名前を呼べなかった。

 

母の前では、「ユノさんがね...」「ユノさんって...」と、さんざん口にできていたのに、ユノ相手だと、言葉が出てこなかった。

 

ユノとはいろいろな話をするようになってゆき、呼称無しでいるのは不便だと感じるようになった。

 

ある日勇気をふり絞って、「ユノさん」と呼んでみたら、「お、やっと俺の名前を呼んでくれるようになったな」と嬉しそうだった。

 

「ユノさん」と呼んでいたところ、「俺たちはもう、友達なんだから、『ユノ』って呼び捨てでいいよ」と言ってくれた。

 

最初はやはり抵抗があったけれど、次第に慣れてきた。

 

そうしたら、「年上の人を呼び捨てにするなんて!」と、母に叱られてしまい、ユノと2人して相談した結果、『ユノちゃん』に落ち着いたのだった。

 

『ユノちゃん』に決定した理由は、『さん』付けよりもフランクな感じだったから。

 

ユノが僕のことを『チャミ』と呼ぶようになったのはいつだったっけ?

 

気付けば、『チャミ』と呼ばれていた。

 

僕は『チャミ』を気に入っていた。

 

僕を『チャミ』と呼んでいいのは、ユノだけだ。

 

 

(つづく)

 

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