(19)麗しの下宿人

 

(オメガの本...。

きっとどこかにあるはずだ)

 

本の在りかを訊ねようと1階カウンターに近づきかけた瞬間、僕は180度、くるりと向きを変えた。

 

僕がカウンターにやってくるのを待っていた風のお姉さんは「あれ?」と思っただろうな。

 

『オメガについて書かれた本はどこにありますか?』...質問したらいけない気がした。

 

『オメガ』というワードは、気軽に口にしてはいけない気がした。

 

とても希少な存在だけど、ユノのように知っている人はいるのだ。

 

本の在りかを訊ねたりなんかしたら、カウンターのお姉さんに「この少年はオメガなのでは?」と疑われるかもしれない。

 

(あのお姉さんが、オメガを知っている人だった場合の話だけど)

 

1階が絵本、2階がこの図書館のメイン階(さっきまで僕が宿題を仕上げていたところ)、2階より上は行ったことはないが、案内板によると専門書が多くそろえられているようだ。

 

(ここだ)

 

3階まで階段を駆け上がり両開き扉を開けると、受付カウンター、大テーブル、書架の順で2階と変わらない配置の部屋だった。

 

書架の高さや間隔が高く狭く設置されており、そこに収められている書籍も、地味な装丁のものばかりなようだ。

 

インクと紙の匂いに満ちていて、ここにいるだけで頭がよくなりそうだった。

 

圧倒的に利用者が少なく、1階、2階とは全く異なる空間だった。

 

この部屋には子供はひとりもいない。

 

受付カウンターには50代くらいの女性がいる。

 

おどおどと入室してきた僕に、「おや?」といった表情になった。

 

僕は利用階を間違えて、迷い込んでしまった子に見えただろう。

 

見張っているような視線をチクチク感じながら、僕は書架に近づいた。

 

(どこかな...)

 

ここに、大学の教授や研究者がまとめた専門書があるかもしれない。

 

僕はごくん、と唾を飲みこんだ。

 

分類など分からないけれど、『オメガ』の文字を頼りに端っこから探してゆこうと思った。

 

(オメガ、オメガ...)

 

最上段の棚は高すぎて、いくら背伸びしてもタイトルを読むことができない。

 

そこで僕は、通路の端に立てかけてあった脚立を引きずっていく。

 

「そこのあなた」と後ろから声をかけられた。

 

驚きのあまり、悲鳴を上げそうになった。

 

「は、はい!」

 

カウンターにいた女性司書だった。

 

「どんな本を探しているのかな?

分かる?」

 

「えっと...えっと...」

 

「宿題の調べ物?」

 

悪いことをしているのを見咎められたかのような気分に襲われた。

 

「あの...その」

 

僕は後ずさりした。

 

「一緒に探してあげましょうか?」

 

それが彼女の仕事であり、好意で言ってくれていたんだろうけど、余計なお世話だった。

 

「どんな本を探しているの?」

 

「......」

 

「...あっ!

あなた!」

 

僕は彼女の呼びかけを無視して、部屋を飛び出した。

 

階段を駆け下りる。

 

ドキドキドキドキ。

 

『オメガの本を探してください』...とてもじゃないけれど、頼めないよ。

 

早くこの場から立ち去りたくて、足がもつれて転げ落ちないよう、手すりに手を滑らせ、ステップだけを見て階段を下りた。

 

踊り場でターンをした時、下からやってきた人とぶつかってしまった。

 

「すみません!」

 

ぶつかってしまった人の顔も見ず、足元に視線を落としたまま謝った。

 

僕は会釈をして、その人の脇をすり抜けようとした。

 

ところが、僕の身体は頑として、その先へ進むことができなかった。

 

「あっ!?」

 

二の腕が痛い。

 

腕を掴まれたのだ。

 

「君って...」

 

言葉と同時に、僕の耳たぶに熱い空気が吹きかかった。

 

「...っ!」

 

僕は首をすくめた。

 

怖気が走り、首にかけただけのタオルを喉元にかきよせた。

 

僕の腕をつかむのは絶対に男の人だ。

 

声の感じから、おじさんではないと思う。

 

僕の頭はその人のお腹辺りで、履いているスニーカーが大きかった。

 

「もしかして...?」

 

その人の顔の距離が近い。

 

ぎゅっと心臓が縮んだ。

 

これは、恐怖だ。

 

叫び声すら出ない。

 

顔を上げることもできない。

 

よって、手の持ち主の顔を確認することもできない。

 

彼と眼を合わせたらいけない気がする。

 

「おい!」

 

僕はその人の手をふり払った。

 

転げ落ちる勢いで、階段を駆け下りた。

 

「待てよ!」

 

早く沢山の人がいる2階にたどり着きたい一心だ。

 

彼に首根っこを掴まれそうな気配を感じた丁度その時、2階から高校生集団が階段を上がってきたのだ。

 

助かった。

 

その高校生集団に、男の人は行く手を阻まれたようだった。

 

「君!」

 

僕は図書館を飛び出して、酷暑の帰路についた。

 

 

「はあはあはあ...」

 

帰り道は下り坂だったから助かった。

 

何度も後ろを振り返って、彼が追ってこないことを確かめた。

 

最初から真剣に追いかけるつもりはなかったようだ。

 

そうでなければ、とっくの前に僕は捕まっていただろう。

 

ぜえぜえと肺を酷使したせいか、呼吸に痰と血の味が混じっている。

 

暑さも喉の渇きも忘れていた。

 

桜の家を曲がると、僕らの下宿屋が前方に見えてくる。

 

あとちょっとだ。

 

門扉まであと10メートルのところで、

「お~い、チャ~ミ~」

前方上から声が降ってきた。

 

窓を開け、欄干に腰をひっかけたユノが、僕に向かって手を振っていた。

 

「ユノっ...ユノちゃん!」

 

僕は息が切れていて、掠れて悲鳴じみた声しか出せない。

 

だらだら滴り落ちる汗が沁みて、目がしょぼしょぼする。

 

「チャミ!?」

 

僕のただ事じゃない様子に気付いたようだ。

 

「待て、待ってろよ。

すぐ行く」

 

窓の中へユノの姿が引っ込んだ。

 

そして、驚くほどの速さで、僕のもとまでやって来たのだ。

 

僕は建物の中に入ろうとはせず、その場でユノが来るのを待っていた。

 

「どうした?

チャミ?」

 

ユノはしゃがんで僕の目線と合わせ、唇をぶるぶる震わす僕を覗き込んだ。

 

「何があった?」

 

「...っ...っ...」

 

「痛いことされたのか?」

 

「ううん」

 

「本当だな?

嘘ついてないな?」

 

「うん」

 

ユノは怪我がないか、僕の身体をあらためた。

 

「おいおい、チャミ~。

涙が出てるぞ?

どうしたんだよ?」

 

ユノの方こそ、泣きそうに顔をゆがめている。

 

「怖かった...」

 

「怖かった!?」

 

「あのねっ...あのね、ユノちゃん。

あのね」

 

僕はもう大丈夫だ。

 

ユノが側にいる。

 

緊張が一気にほどけ、おしっこをお漏らししそうだった。

 

「中に入ろうか?」と、ユノは僕の背に手を添えた。

 

「待って」

 

僕はユノの手をすり抜けて、門扉の外に出ると、念押しで桜の家の辺りを確認した。

 

真夏の平日、中途半端な時間帯、通りには車も通行人もいない。

 

「...チャミ?」

 

僕はユノの手を取り、今度は僕が下宿屋の中へと先導した。

 

よほど慌てていたのだろう、ユノは裸足だった。

 

 

ユノは片手で自身の鼻を塞いでおり、彼のこめかみには青筋が立っていた。

 

やっぱりタオルだけじゃ不完全なんだ。

 

「ごめん、ユノちゃん。

すぐに冷やすから...」

 

首筋に手をやると、ぬるりと汗に濡れた肌に直接触れた。

 

「あ...」

 

タオルがない。

 

どこかに落としてきたのだ。

 

道中か、図書館か。

 

 

(つづく)

 

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