(20)麗しの下宿人

 

僕はユノを建物の中へと引っ張り込むと、彼の胸にしがみついた。

 

「何があった?

チャミ?」

 

「......」

 

眩しい太陽から逃れた僕の視界は真っ暗で、だから僕は目をギュッとつむって、ユノのみぞおちに頬をぴたりとくっつけていた。

 

「チャミ...震えてる」

 

ユノに指摘されるまで、僕の背中が震っていることに全く気付かなかった。

 

身体はこんなに熱いのに、表面はうっすらと冷や汗をかいているようだった。

 

「黙ってたら分からない。

何があったんだ?」

 

問いかけに一向に答えようとしない僕に、ユノは諦めたようだった。

 

ユノ自身の汗で湿っていたTシャツは、僕の涙でさらに濡れた。

 

ユノは痩せている。

 

でも、こうやって抱きついてみると、見た目以上に筋肉がついていて、厚みのある身体つきだと知った。

 

なぜなら、僕の両腕では囲いこめないのだ。

 

ユノは僕の背を、やさしく撫ぜてくれていた。

 

あの男が下宿屋まで追いかけてきていないことは確認済だ。

 

でも、あの時の、心臓をぎゅっと掴まれたみたいな恐怖感からは、まだまだ逃れられずにいた。

 

それでも、ユノがいれば大丈夫だ。

 

ユノは僕の呼吸が整ったのを確かめると、

「おんぶしてやろうか?」

「え?」

 

僕の返事を聞く前に、ユノは僕に背を向けてしゃがみこんだ。

 

ユノの広い背中と「おいでおいで」している両手に甘えて、僕は全身を預けた。

 

「......」

 

...多分、ユノは息を止めていたんだろうと思う。

 

僕の放つ香りがとても苦しかっただろうに...ユノは僕の首を覆うどころか、全身を密着させ、蒸した自室に連れて行ったのだ。

 

 

のちに、オメガとは暴力を呼び寄せがちな危険な存在だと知り、ユノの自制心の強さに驚くしかなかった。

 

その自制心は、僕への愛情が下支えになっていることも、しばらく後になって知った。

 

 

ユノに手渡されたグラスの中身...水道水...を、一気飲みした。

 

首にはタオルを巻きつけていた。

 

(軒下に干されていたユノの持ち物だ)

 

ようやく僕は、図書館での出来事を話した。

 

人付き合いの苦手な小学生が、要点を押さえた筋道だった話ができるはずもない。

 

図書館で宿題をするに至った動機から伝えようとするから、男に腕を掴まれたところに到達するまでの前置きが長くなってしまった。

 

その間ユノは、団扇で胸元を扇ぎながら僕の話を辛抱強く聞いてくれた。

 

「結局、何があったんだよ?」と苛立ちを露わにされたら、僕はひるんでしまうか、拗ねてこの部屋を出て行ってしまったと思う。

 

ユノは僕という子供をよく分かっている。

 

僕とうまくやっていくには、気が短くてはいけないのだ。

 

 

話し終える頃には、僕も落ち着きを取り戻していた。

 

「そりゃあ、軽率だったなぁ。

気を付けるように、って言っただろう?」

 

「軽率って?」

 

「軽々しいってこと。

よく考えずに、行動してしまうってこと」

 

いつもなら「辞書で調べな」とそっけないのに、今日のユノは優しい。

 

僕は首に濡れタオルを巻いていた。

 

「ちゃんと考えたよ?

タオルだって巻いて行ったんだから」

 

「冷たいアレは巻いていかなかったのか?」

 

「...それは」

 

保冷剤を冷凍庫に入れておくことを、うっかり忘れていたのだ。

 

「だって、だって...ユノちゃんがいないから。

いっつも家にいないしっ...一人で出かけるしかないじゃないか。

この家は暑すぎるんだよ」

 

「そう言われても...バイトだったんだ...」

 

「僕は『オメガ』だって教えたのはユノちゃんだよ?

知ってるなら全部教えてくれてもいいのに!

責任とってよ?」

(『責任をとる』なんて、一体どこで覚えた言葉なんだろう?多分、テレビドラマか何かだと思う)

 

甘ったれたガキになって、僕はめそめそとぐずってみせた。

 

「だってなぁ...。

チャミのこれからの人生がかかっている事なんだ。

他人の俺が聞きかじった素人知識だ。

いい加減なことは教えられない。

...そう思ったんだ」

 

「分かってるよ。

お母さんに話して、その後病院に行って...。

そういう順番だったよね?」

 

「そう。

チャミが言う通り、放ったらかしにしていた俺がマズった。

まさか、チャミの香りに気付く奴が近くにいるとは思わなかったんだ」

 

「びっくりしたのは僕だよ。

腕痛かったんだから。

ほら?」

 

ユノに二の腕を差し出してみて、僕自身が驚いた。

 

「!!」

 

痛かったはずだ。

 

男に捕まれたそこに、赤く指の跡がついていた。

 

「ちくしょう...」

 

唸るようなユノの低い声に、僕はハッとした。

 

「でも...」

 

ユノはうな垂れると、深い深い沼から響いてくるような、大きなため息をついた。

 

「よかった...チャミが何ともなくて」

 

ユノの大きな手が伸びてきて、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫ぜた。

 

そうかぁ。

 

ユノの態度が鬼気迫るものではなく、どこかとぼけたものだったのは、僕のパニックに追い打ちをかけないようにするためだったのか。

 

「その男の特徴については、他に覚えていることはないのか?」

 

僕は首を振った。

 

あの時の僕はうつむいていて、男の大きなスニーカーしか見ていない。

 

分かったのは、若い男の人で力が強かったこと。

 

僕の耳たぶに吹きかかった、熱い吐息。

 

思い出すと、ぞくりと背筋が凍る。

 

ユノは再び、ため息をついた。

 

「はぁ...。

チャミはまだ子供で助かった。

マジで助かった」

 

「子供だと大丈夫なの?」

 

ユノの言葉が気になって、僕は身を乗り出しかけたが、一瞬顔を背けた彼にハッとして、身を引いた。

 

「チャミには理解できないだろうけど、オメガってのは...。

こんな言葉は使いたくないんだが、つまり~...」

 

ユノはとても言いにくそうに、言い渋っている。

 

「何?」

 

僕は「教えてよ」とユノをキッと睨みつけた。

 

(つづく)

 

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