ユノと話をしているうちに、気持ちが落ち着いてきた。
いつも思っているんだけど、ユノの声は僕の耳に心地よい。
今の僕の首筋は保冷剤で十分冷やされていて、ユノを苦しませることはない。
ユノ曰く、僕の匂いは特定の人を『エロい』気分にさせ、『エロい』気分になった彼らは僕に乱暴をしたくなるという。
でも、ユノは僕の匂いを嗅いでも平気だという。
「よかったぁ。
ユノはオメガの匂いが分かる人だけど、あいつみたいに怖い人にはならないんだね。
薬を飲めば匂いの心配なくなるし、これで僕らはいままで通りだね」
「そうだな」
ユノは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。
「宿題は済んだのか?」
「うん。
読書感想文」
「読書感想文かぁ、懐かしいなぁ」
「面白かったよ。
ユノちゃんも読んでみる?」
「俺ってマンガしか読んでこなかったんだぞ?」
「ユノちゃんは頭いいんだから、大丈夫だって。
僕でさえ読めるんだから。
待ってて」
僕は玄関に置きっぱなしだったバッグを取って引き返すと、ペンケースと原稿用紙、ハードカバーの本を取り出した。
「...あ」
この時タオルの件を思い出したのだ。
(もしかして...)
淡い期待をもとにバッグをひっくり返したけれど、鉛筆キャップが1個、畳の上に転がり落ちただけだった。
「どうした?」
「ユノちゃん...。
図書館までタオルを巻いていったんだけど...どこかにやっちゃった!!」
「え」
ユノの動きが止まった。
「多分、落としたんだと思う。
だって、あの男の人が怖くって、びっくりしたから。
逃げなくちゃって。
多分、バッグに入れてたつもりなんだけど、そうじゃなかったみたい!」
「チャンミン?」
「待って。
待ってね、思い出すから。
どうだったっけな?
ちゃんとバッグに入れてた、入れたよ!
でも、無くなってるし!
...なんでだろう」
タオルを無くしたと聞いた時のユノの反応から、とても良くないことだと察したのだ。
僕のタオルは、汗もオメガ特有の匂いも吸い込んでいた。
オメガの匂いを嗅ぎつけられるあの男が、僕のタオルを拾っていたとしたらどうしよう!
あの男にタオルが拾われたとしても、僕は走り去っていてしまっているのだから、何が悪いのか僕には分からない。
でも、ユノの固い表情を見てしまうと、僕はやっぱり良くないことをしたのだ。
「宿題をやってた机のところにあるかもしれない!
そこで汗を拭いた気がする。
それで、机に置きっぱなしにしたのかも!」
席を離れる時忘れ物が無いかどうかしっかり確認をしたのだから、僕自身がそうではないことを覚えている。
「後で図書館まで取りに行こうよ!
ユノちゃんも一緒に来て。
誰かが拾ってくれてるかも!
だって、図書館に着いた時はちゃんとあったんだから!
タオルは図書館だよ!
きっとあるよ」
話すスピードもボリュームも増していく。
「暗くなった頃なら、あの男は帰っちゃってるよ。
僕が心配なら、ユノちゃんもついてきて、ね?」
「落ち着けチャンミン」
ユノに怒られるのが嫌で必死で弁明する僕に、ユノは「もういいから」と繰り返してくれた。
「タオルごとき...大したことないよ。
チャミはな~んにも悪くないよ」
「ホントに?」
「ああ」
ユノはやおら立ち上がり、軒下に干されていたタオルを僕に投げてよこした。
「涙を拭けよ」
目を細めたユノの笑顔には、労わりがこもった。
まぶたの裏が熱かった。
どうやら僕は泣きべそをかきかけていたようだ。
「ちゃんと洗濯してる?
タオル...ユノ臭い」
「うるせ~な。
男は臭いんだよ」
「ひゃははは」
僕は後ろに飛び退いて、タオルを取り返そうと伸びたユノの手から逃れた。
「くくくく...」
僕は緊張感や不安感を払拭するかのように、ひときしり笑いこけた。
「分かった」
場を切り替えるように、ユノは太ももを叩いて言った。
「夕飯の後、夕涼みがてら図書館に行こうか?」
「うん!」
「万が一に訊くけど。
まさか名前書いてたりしないよな?」
「...書いてるけど?」
僕は小学生だ。
持ち物に名前が書いてあるのが普通なのだ。
「駄目だった?」
「いや」
「名前が書いていないと、誰の物か分からなくなるでしょ?」
「そうだね。
落とし物をしても、名前が書いてあったおかげで手元に戻ってくるんだしな。
ふあぁぁ...眠い」
ユノは大口開けてあくびをすると、欄干に腰掛け窓の外へと視線を移した。
窓枠に頭をもたせかけているせいで、ユノの表情は分からない。
首が太く見えるのは、ユノの頭身が高いせいだ。
汗で濡れた後ろ髪がうなじに張り付いていた。
景色を眺めながらもの思いにふけったり、漫画本を読んだり...これがユノのいつもの光景だ。
同じユノでも、窓を境にして違う印象を受ける。
下宿屋の外から見上げると気楽な学生に、今のように部屋の中からは、どこか寂し気で秘密多き大人の男に見える。
「後でね」
僕はユノの背中に手を振り、敷居に引っかかる木戸に苦労したのち、部屋を出た。
・
夕飯の後、ユノと図書館へ出かけた。
午後7時になっても、外は明るかった。
受付にタオルが届けられている確率は半々だと予想していた。
僕の首筋に吹きかかった、あの男の熱い吐息に、執着を感じとっていた。
僕のタオルは今、男の手元にある...多分。
・
(やっぱり...)
「ごめんなさいね」と、受付のお姉さんは申し訳なさそうだった。
「館内を探してみましょうか?
私も一緒に行きます」
「それには及びません」
カウンターから出ようとするお姉さんを、ユノは押しとどめた。
「僕らだけで十分です。
お仕事の邪魔をするわけにはいきません」
「でも...」
ユノも僕と同じ予感がしていたのだろう。
無いと分かっているのに、お姉さんの手を煩わせてしまうわけにはいかない。
「心遣い、ありがとうございます。
2人で探せます。
大丈夫ですから」
美しいユノに微笑まれて、お姉さんはうっとりしていた。
・
1階から2階は空振りだった。
3階は受付カウンターも閲覧室も無人で、ガランとしていた。
「見てるだけで賢くなれそうだな」と、書架を見上げるユノに僕は打ち明けた。
「僕さ...オメガの本を探していたんだ。
難しい本がいっぱいあるここなら、あるんじゃないかなぁって」
ユノは立ち止まった。
「オメガの本ってあるの?」
「ない」
ユノは振り向いた。
「一冊も?」
「誰でも自由に読めるような所には無いと思う。
でも、受付で申請をすれば、奥から出してくれると思う」
「......」
「俺は反対しないよ。
でも俺は、専門家の口から直接説明を受けてからの方がいいと思う。
まっさらな状態で聞いた方がいいと思うからだ。
知りたくて仕方がないチャミの気持ちは分かる。
俺は専門家じゃないから、俺の口から説明できないのがもどかしい」
「...うん」
僕はしょんぼりしてしまった。
「あと2,3日の辛抱だ。
その間、チャミを危ない目に遭わせないよう張り付いているからな」
その後、階段からトイレまですみずみまで探してみたけれど、タオルは見つからなかった。
(つづく)
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