(22)麗しの下宿人

 

ユノと話をしているうちに、気持ちが落ち着いてきた。

 

いつも思っているんだけど、ユノの声は僕の耳に心地よい。

 

今の僕の首筋は保冷剤で十分冷やされていて、ユノを苦しませることはない。

 

ユノ曰く、僕の匂いは特定の人を『エロい』気分にさせ、『エロい』気分になった彼らは僕に乱暴をしたくなるという。

 

でも、ユノは僕の匂いを嗅いでも平気だという。

 

「よかったぁ。

ユノはオメガの匂いが分かる人だけど、あいつみたいに怖い人にはならないんだね。

薬を飲めば匂いの心配なくなるし、これで僕らはいままで通りだね」

 

「そうだな」

 

ユノは僕の頭をポンポンと軽く叩いた。

 

「宿題は済んだのか?」

 

「うん。

読書感想文」

 

「読書感想文かぁ、懐かしいなぁ」

 

「面白かったよ。

ユノちゃんも読んでみる?」

 

「俺ってマンガしか読んでこなかったんだぞ?」

 

「ユノちゃんは頭いいんだから、大丈夫だって。

僕でさえ読めるんだから。

待ってて」

 

僕は玄関に置きっぱなしだったバッグを取って引き返すと、ペンケースと原稿用紙、ハードカバーの本を取り出した。

 

「...あ」

 

この時タオルの件を思い出したのだ。

 

(もしかして...)

 

淡い期待をもとにバッグをひっくり返したけれど、鉛筆キャップが1個、畳の上に転がり落ちただけだった。

 

「どうした?」

 

「ユノちゃん...。

図書館までタオルを巻いていったんだけど...どこかにやっちゃった!!」

 

「え」

 

ユノの動きが止まった。

 

「多分、落としたんだと思う。

だって、あの男の人が怖くって、びっくりしたから。

逃げなくちゃって。

多分、バッグに入れてたつもりなんだけど、そうじゃなかったみたい!」

 

「チャンミン?」

 

「待って。

待ってね、思い出すから。

どうだったっけな?

ちゃんとバッグに入れてた、入れたよ!

でも、無くなってるし!

...なんでだろう」

 

タオルを無くしたと聞いた時のユノの反応から、とても良くないことだと察したのだ。

 

僕のタオルは、汗もオメガ特有の匂いも吸い込んでいた。

 

オメガの匂いを嗅ぎつけられるあの男が、僕のタオルを拾っていたとしたらどうしよう!

 

あの男にタオルが拾われたとしても、僕は走り去っていてしまっているのだから、何が悪いのか僕には分からない。

 

でも、ユノの固い表情を見てしまうと、僕はやっぱり良くないことをしたのだ。

 

「宿題をやってた机のところにあるかもしれない!

そこで汗を拭いた気がする。

それで、机に置きっぱなしにしたのかも!」

 

席を離れる時忘れ物が無いかどうかしっかり確認をしたのだから、僕自身がそうではないことを覚えている。

 

「後で図書館まで取りに行こうよ!

ユノちゃんも一緒に来て。

誰かが拾ってくれてるかも!

だって、図書館に着いた時はちゃんとあったんだから!

タオルは図書館だよ!

きっとあるよ」

 

話すスピードもボリュームも増していく。

 

「暗くなった頃なら、あの男は帰っちゃってるよ。

僕が心配なら、ユノちゃんもついてきて、ね?」

 

「落ち着けチャンミン」

 

ユノに怒られるのが嫌で必死で弁明する僕に、ユノは「もういいから」と繰り返してくれた。

 

「タオルごとき...大したことないよ。

チャミはな~んにも悪くないよ」

 

「ホントに?」

 

「ああ」

 

ユノはやおら立ち上がり、軒下に干されていたタオルを僕に投げてよこした。

 

「涙を拭けよ」

 

目を細めたユノの笑顔には、労わりがこもった。

 

まぶたの裏が熱かった。

 

どうやら僕は泣きべそをかきかけていたようだ。

 

「ちゃんと洗濯してる?

タオル...ユノ臭い」

 

「うるせ~な。

男は臭いんだよ」

 

「ひゃははは」

 

僕は後ろに飛び退いて、タオルを取り返そうと伸びたユノの手から逃れた。

 

「くくくく...」

 

僕は緊張感や不安感を払拭するかのように、ひときしり笑いこけた。

 

「分かった」

 

場を切り替えるように、ユノは太ももを叩いて言った。

 

「夕飯の後、夕涼みがてら図書館に行こうか?」

 

「うん!」

 

「万が一に訊くけど。

まさか名前書いてたりしないよな?」

 

「...書いてるけど?」

 

僕は小学生だ。

 

持ち物に名前が書いてあるのが普通なのだ。

 

「駄目だった?」

 

「いや」

 

「名前が書いていないと、誰の物か分からなくなるでしょ?」

 

「そうだね。

落とし物をしても、名前が書いてあったおかげで手元に戻ってくるんだしな。

ふあぁぁ...眠い」

 

ユノは大口開けてあくびをすると、欄干に腰掛け窓の外へと視線を移した。

 

窓枠に頭をもたせかけているせいで、ユノの表情は分からない。

 

首が太く見えるのは、ユノの頭身が高いせいだ。

 

汗で濡れた後ろ髪がうなじに張り付いていた。

 

景色を眺めながらもの思いにふけったり、漫画本を読んだり...これがユノのいつもの光景だ。

 

同じユノでも、窓を境にして違う印象を受ける。

 

下宿屋の外から見上げると気楽な学生に、今のように部屋の中からは、どこか寂し気で秘密多き大人の男に見える。

 

「後でね」

 

僕はユノの背中に手を振り、敷居に引っかかる木戸に苦労したのち、部屋を出た。

夕飯の後、ユノと図書館へ出かけた。

 

午後7時になっても、外は明るかった。

 

受付にタオルが届けられている確率は半々だと予想していた。

 

僕の首筋に吹きかかった、あの男の熱い吐息に、執着を感じとっていた。

 

僕のタオルは今、男の手元にある...多分。

 

 

(やっぱり...)

 

「ごめんなさいね」と、受付のお姉さんは申し訳なさそうだった。

 

「館内を探してみましょうか?

私も一緒に行きます」

 

「それには及びません」

 

カウンターから出ようとするお姉さんを、ユノは押しとどめた。

 

「僕らだけで十分です。

お仕事の邪魔をするわけにはいきません」

 

「でも...」

 

ユノも僕と同じ予感がしていたのだろう。

 

無いと分かっているのに、お姉さんの手を煩わせてしまうわけにはいかない。

 

「心遣い、ありがとうございます。

2人で探せます。

大丈夫ですから」

 

美しいユノに微笑まれて、お姉さんはうっとりしていた。

 

 

1階から2階は空振りだった。

 

3階は受付カウンターも閲覧室も無人で、ガランとしていた。

 

「見てるだけで賢くなれそうだな」と、書架を見上げるユノに僕は打ち明けた。

 

「僕さ...オメガの本を探していたんだ。

 

難しい本がいっぱいあるここなら、あるんじゃないかなぁって」

 

ユノは立ち止まった。

 

「オメガの本ってあるの?」

 

「ない」

 

ユノは振り向いた。

 

「一冊も?」

 

「誰でも自由に読めるような所には無いと思う。

でも、受付で申請をすれば、奥から出してくれると思う」

 

「......」

 

「俺は反対しないよ。

でも俺は、専門家の口から直接説明を受けてからの方がいいと思う。

まっさらな状態で聞いた方がいいと思うからだ。

知りたくて仕方がないチャミの気持ちは分かる。

俺は専門家じゃないから、俺の口から説明できないのがもどかしい」

 

「...うん」

 

僕はしょんぼりしてしまった。

 

「あと2,3日の辛抱だ。

その間、チャミを危ない目に遭わせないよう張り付いているからな」

 

その後、階段からトイレまですみずみまで探してみたけれど、タオルは見つからなかった。

 

(つづく)

 

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