~帰りたくない~
「!!」
突然、チャンミンの耳に冷たいものが押し当てられて、チャンミンは飛び起きる。
「お水ですよー。
冷蔵庫の中も無料ですって。
冷たくて美味しいですよー」
「民ちゃん...それ」
チャンミンは民を一目見ると、思わずぷぷっと吹きだした。
薄ピンク色のシャツ型ガウンは、民が着るとつんつるてんだった。
「変...ですか?」
甘ったるく安っぽいボディーソープの香りを漂わせていた。
「変じゃないよ」
(変どころか...可愛い)
チャンミンはベッドの上にあぐらをかいて座り、民から受け取ったミネラルウォーターをあおった。
からからに干上がったチャンミンの喉を、冷えた水が滑り落ちて潤していく。
民はチャンミンの隣に座ると、ごくごくとオレンジジュースを一気飲みして、ぷはーっと息を吐いた。
「さて、と。
さっぱりしたところで、チャンミンさんのお話を聞きましょうか?」
ハイテンションだったこれまでとうって変わって落ち着いた、いたわるような口調だった。
「大丈夫じゃないですよね。
辛いですね」
「......」
チャンミンは頭をとんと、民の肩にもたせかけた。
民はチャンミンの頭を撫ぜながら、静かに話し出した。
「私はフラれてばかりだから、フる側の気持ちは想像するしかできません。
誰かと両想いになったことなんてありません。
誰も私を、カノジョにしたくないみたいなんですよ、悲しいかな。
でも、お付き合いしていた人との関係を終わらせるのって、大変なんだろうなぁ、って思います」
チャンミンの鼻先は、合成繊維の布越しに民の細い鎖骨を感じていた。
「......」
「私でよければ話を聞きますよ。
せっかく同じ顔をしているんですから。
独り言だと思って、お話しくださいな。
楽になりますよ」
「民ちゃん...」
チャンミンの目から、ぶわっと涙が湧いてきた。
チャンミンは堰を切ったかのように、リアとの出会いから同棲を始めるまでの経緯、その後の虚しい日々まで、全部、民に語っていた。
チャンミンの顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。
「別れたいと口に出さなければ、今までのように暮らしていけたのに...」
(リアへの恋愛感情は消えてしまったけれど、リアと過ごした1年を思い出すと、胸が切なくて苦しいんだ)
「チャンミンさんは、今までの暮らしに戻りたいんですか?
もしそうなら、今ならリアさんとやり直せるんじゃないんですか?」
チャンミンは激しく左右に首を振った。
「...別れなくちゃいけなかったんだ。
僕はもう、リアの彼氏でいたくなかった」
(悲しいのは、僕らは『終わってしまった』、という事実だ)
「チャンミンさんは、そう決めたんでしょ?
自分の気持ちに正直でいることは大事、だと私は思ってます」
肩を震わせて泣くチャンミンの背中を、民はポンポンとあやすように優しく叩いた。
「失恋は...辛いですねぇ」
(民ちゃんの言う通りだ。
別れを告げたのは僕の方からだったとしても、やっぱりこれは失恋なんだ)
民のガウンに次々と溢れるチャンミンの涙が染みを作った。
(民ちゃんの前で泣いてしまった。
僕の色恋沙汰を赤裸々に暴露してしまった。
甘ったれた姿を見せてしまった。
民ちゃんなら全てを受け止めてくれそうな、安心感がある。
目の前にいるこの子に惹かれてしまうのは、僕と同じ顔をしているからか?
違う。
僕と同じ顔をしているからこそ、僕と違う部分がつまびらかに分かるんだ。
僕にはない美点が、宝探しのように次々と発見できるんだ)
「ほらほら、涙を拭いてくださいな」
民はガウンの裾を引っ張って、チャンミンの顔を拭った。
民の黒いショーツが目に飛び込んできて、チャンミンはここにきて初めて、自分たちがどこにいるのかをリアルに認識した。
(ラブホテルの円形ベッドの上...。
ヘッドレストの上には、ティッシュペーパーの箱とコンドームが2個並んでいて...。
なんていう光景だよ)
~チャンミン~
「民ちゃん...パンツ見えてる」
「わっ!」
民ちゃんは短すぎるガウンの裾をかき合わせ、枕を引っつかんで膝の上に抱きしめた。
「民ちゃんときたら無防備過ぎるよ。
相手が僕でよかったね。
僕じゃなかったら、民ちゃん押し倒されてるよ」
ネオンピンクの照明の下でも、民ちゃんの顔がボッと赤くなったのが分かった。
「ここがどういうところか...分かってる?」
民ちゃんに全てを打ち明けて、胸のつっかえが取れた僕は余裕を取り戻してきた。
民ちゃんに意地悪をしたくなってきた。
「押し倒されても文句は言えないよ」
民ちゃんの肩がビクッとした。
「ごめんなさい...。
そういうつもりじゃ、なかったんです」
警戒心のない民ちゃんに、僕は複雑な心境だった。
民ちゃんに『そういうつもり』が全然なかったことは、よく分かってる。
「チャンミンさん、お家に帰りたくないって言ってたし、
辛そうだったから、元気になってもらおうと...」
民ちゃんは本当に、お泊り『だけ』するつもりだったんだ。
「分かってるよ」
垂れ下がって片目を覆った前髪を、耳にかけてやった。
分かってはいたけど、寂しいなぁ。
民ちゃんと今夜、どうにかなってしまったら困るけど、何もないってのもなぁ。
「ありがとう、民ちゃん」
民ちゃんは、目を伏せたまま「どういたしまして」とつぶやくように言った。
妖しいピンク色の照明が民ちゃんの顔に、妖しい影を作っていた。
僕のとは違う、ややふっくらとした頬のラインや小振りの顎に気付いて、胸が苦しくなった。
僕と同じ顔をしているのに、どうして民ちゃんは男じゃないんだよ。
どうして女の子なんだよ。
民ちゃんの目には、僕は『男』として映っていないんだろうか?
知らず知らずのうちに握りしめていた手をほどいて、民ちゃんの肩にかけた。
「ひゃっ!」
力任せに民ちゃんを仰向けにベッドに押し倒した。
真ん丸の目で僕を見上げる民ちゃんが可愛すぎて。
民ちゃんの首筋の、柔らかくて薄い皮膚に僕は唇を押し当てた。
ミルクのようないい香りがする。
押し当てるだけじゃ足りなくて、柔く食んだ。
無防備過ぎる民ちゃんを、滅茶苦茶にしたくなった。
(つづく)
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