(10)君と暮らした13カ月

 

 

~春~

 

 

配達員とのやりとりで怖気付いてしまった私は、チャンミンと散歩に行けるだけの気力が消えてしまった。

 

チャンミンの身体を拭いてやり、「ごめんね」と謝った。

 

チャンミンの上目遣いの眼が、「気にしないでいいですよ。また今度でいいですよ」と言っていた。

 

臨時の配達員のように、若い男の人を見ると足がすくんでしまう。

 

1年前まで、この家には同居人がいた。

 

私がここにやって来る前から住んでいた。

 

同居人はユノさんの寝室で寝起きしていた。

 

二人の関係がどういう類のものなのか、当時11歳の私でも知っていた。

 

私の前では露骨なスキンシップはなかったけれど、その人はユノさんの立ち居振る舞いを常に目で追っていた。

 

その人を見つめるユノさんの表情も優しくて、ちょっとだけ嫉妬してしまった。

 

ここに暮らし始めた当初は、私は二人の世界に割り込んできた邪魔者で、とても居心地が悪かった。

 

部屋に閉じこもっていた私をリビングへ引っ張り出したのはその人で、半年も経つと3人で食卓を囲むのが当たり前の景色となった。

 

ユノさんとその人が私のお父さんとお母さんだったら...と、想像することもあった。

 

その人は懐っこい人で、ユノさんだったら絶対にしないこと...例えば、ラグに座って読書する私に、同じく胡坐をかいていたその人は「ここに座って」と膝を叩いた。

 

「そこまで私は子供じゃないのにな」と戸惑いながら、可愛がってくれるのなら、と素直にその人の膝に乗った。

 

飼い犬のように私の頭を撫ぜまわし、抱き上げるその人に、ユノさんは「ミンミンはペットじゃないんだから」とたしなめていた。

 

その人の視線が実はねっとりと粘着質なものだと察することができなかったのは、私が子供過ぎたからだ。

 

ユノさんは仕事で、その人がユノさんより早く帰宅した日のことだった。

 

5月下旬なのにとても暑い日で、ピッチャーいっぱいに作ったアイスティーをグラスに注ぎ足し飲みながら、食卓テーブルで私は自習をしていた。

 

テーブルの下に寝そべったタミーの尻尾が、私のふくらはぎを時折くすぐっていた。

 

その人は壁掛け時計に目をやり、つられて私も時間を確認した。

 

今すぐ用意を始めないと夕飯の時間に間に合わない、と席を立った時、

 

「分からない所があれば教えてあげるよ」

 

背中いっぱい熱い空気に包まれ、はっと顔をあげた時、その人の顔が真横にあった。

 

その人に覆いかぶされた私は、振り向くことなんて不可能で首を振るのがやっとだった。

 

「っ!」

 

うなじに吹きかけられる吐息は熱く湿っているのに、私は全身鳥肌がたっていた。

 

頭の中は真っ白だった。

 

私の肩から胸、お腹へと這いまわる手を、金縛りにあった私は成すすべもなく目で追うしかできなかった。

 

声を出せない自分が悔しかった。

 

抗議の言葉も、こみ上げる恐怖と怒りの感情も、喉奥で堰き止められていた。

 

その人の手が腰に達した時、限界を越えてしまった私は行動していた。

 

身体が勝手に、脳からの命令無しで動いた。

 

傍らにあったピッチャーをつかんで、その人の頭に打ちおろしていた。

 

取っ手だけになったピッチャーを握りしめ、頭を抱えて床にうずくまるその男を見下ろしていた。

 

 

 

 

あんなに怒ったユノさんを見たのは、あとにも先にも、その時だけだった。

 

顔を真っ赤にさせて怒る人は何度も見たことはあるけれど、怒りで顔色が真っ青になる人を初めて見た。

 

何が起こったのか、私がどんな思いをしたのか説明しなくても全部、ユノさんには伝わっていた。

 

「...でていけ」

 

やっとのことで絞り出したといった、ユノさんの掠れた声だった。

 

ユノさんは男の背中を蹴って、ドアの外へ締め出したかったんだろうに。

 

額を割って出血した人間に、乱暴なことをするわけにはいかず、ユノさんは男を診療所へ連れていくしかなかった。

 

診察室でどんな会話が交わされたのか、怪我の原因を問われてユノさんはなんて答えたのか、私は想像するしかなかった。

 

怪我をさせた私は、警察に捕まるかもしれない。

 

怖かった。

 

夜になって帰宅したユノさんは、私の顔を見るなり抱きしめた。

 

「悪かった...ごめん。

ミンミン、ごめんな」

 

つなぎにあの男の血がついていた。

 

翌日、ユノさんは男の持ち物を全部、箱に詰めて彼の実家へ宅配便で送ってしまった。

 

「本当はね、ぶっ壊して捨ててしまいたい。

さすがにそれは...ね?

もめ事がひとつ増えるだけだ」

 

そう言いながら、ユノさんはベッド―シーツとタオルを庭で燃やしていた。

 

男の匂いが染みついたものが耐えがたかったのだ。

 

ミンミンが望むなら、あいつを徹底的に責め立て償わせるけど、どうする?

 

そう問いかけているユノさんの眼に、私も眼差しで答えた。

 

ユノさんがいっぱい怒ってくれたから気が済んだよ、って。

 

灰色の煙が初夏の空に吸い込まれていった。

 

あれ以来、ユノさんは恋人も作らず、誰かに会いに出かけることも一切なくなった。

 

 

 

 

帰宅したユノさんに届いた荷物を渡した。

 

ユノさんには、何百kmも離れた地にお嫁にいった妹さんがいる。

 

嫁ぎ先は酪農が盛んな地だとかで、妹さんは定期的にハムやバターを送ってくれるのだ。

 

家の前に広がる草原に、夏になるとヒツジが放牧される。

 

緑に白い点々と散らばり、夕方になると群れを作って小屋へと帰っていく。

 

ただ眺めるだけの景色だった。

 

今年からは、チャンミンが駆け回る遊び場になる。

(怖いもの知らずでヒツジに近づいて、蹴られることもありそうだ)

 

「チャンミンとの散歩はどうだった?」とは、ユノさんは尋ねなかった。

 

行けずじまいだったことを分かっている。

 

チャンミンが可愛いからといって、外へ飛び出していけるほど私は素直で無邪気な子供じゃないのだ。

 

仰向けに寝っ転がったチャンミンのお腹をくすぐった。

 

ピンク色のお腹に4色の毛が中心にむかって渦巻いて生えている。

 

渦巻きの中心を指さして、「ここって何?」とユノさんに質問した。

 

「おへそだよ」

 

ユノさんは私の側にしゃがみこんだ。

 

「母親のお腹にいた証拠だ」

 

私はチャンミンのお腹にぴたっと、手の平を当てた。

 

毛が薄く、無防備に柔らかいお腹が、チャンミンの体温を最も感じられる場所だった。

 

私とユノさんにお腹を撫ぜられて、チャンミンは気持ちよさげで、四肢を動かすのを忘れていた。

 

 

(つづく)

 

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