~夏~
かきむしったせいで、ふくらはぎの虫刺され痕が赤く腫れていた。
チャンミンのピンク色のお腹にもぽつんぽつんと赤い痕があり、短い脚の彼の代わりに私が掻いてあげた。
夏の夜はこもった熱で寝苦しくて、窓を開けっぱなしにしている。
蚊帳を吊ってはいるが、隙間から忍び込んだやぶ蚊に刺されたのだ。
朝晩は涼しくなり、チャンミンのぬくもりの出番がやってきた。
私の脇腹だけにお尻をくっつけて眠っていたのが、朝方になると肌寒さに私の懐にもぐり込んでくる。
「夏も終わったねぇ」
ミンミンミンミンと私を呼ぶ蝉の声も、いくぶん大人しくなってきているようだ。
眉の上に貼った絆創膏はもうすぐとれるだろう。
絆創膏に触れる私に、チャンミンは肩を落とし申し訳なさそうに眉を下げた。
・
チャンミンの後ろ足は、二股のひづめになっている。
その爪は琥珀色の半透明をしている。
プラムの木によじのぼれたのも、爪先が鋭く尖っているからだった。
チャンミンの爪は時には凶器になった。
元はと言えば、意地悪をした私が悪かった。
私の腕からすり抜けようと身をよじった時、そうはさせまいと力いっぱい抱きしめた。
チャンミンは渾身の力でもがき、弾みで後ろ足で私の顔を蹴った。
チャンミンの鋭い爪先が、私の皮膚を切り裂いた。
血が沢山出た。
とっさの行動で悪気は全くなかったにせよ、大好きなチャンミンに傷つけられたことにショックを受けた。
自分が何をしでかしたのか、チャンミンは瞬時に悟ったのだろう。
一度はテーブルの下に引っ込んだが、顔を押さえうずくまる私にそろそろと近づいてきた。
心配げに私の腕を引っかいた。
「やめて!」
私は肘でチャンミンを追い払った。
元々醜い顔をしている私だったから、傷痕ができようと構わなかった。
でもユノさんは「痕になったらいけない」とそれを許さず、私は有無を言わせず街の診療所へ連れていかれることになってしまった。
チャンミンがひとりで留守番をするのは、この時が初めてだったかもしれない。
「僕も行く!」と私の膝に飛び乗ろうとするチャンミンに、ユノさんはぴしりと命じた。
「タミーと留守番をしていなさい」
チャンミンはすごすごとトラックから離れ、地面にぺたりとお尻を落とし、悲し気に私を見上げた。
私は乱暴にドアを閉めた。
トラックが走り出すと、チャンミンも走り出した。
「家に戻りなさい!」
窓から顔を出し、追いかけてくるチャンミンを大声で叱りつけた。
半べそかいた顔で走っている。
走りの速いチャンミンでも自動車のスピードには敵わない。
それでもチャンミンは、両耳をたなびかせ追いかけてきた。
どこまでも追いかけてきた。
チャンミンを置いてけぼりにした。
チャンミンは私のことが心配なのだ。
出血を押さえたタオルに、こみあげてきた涙がしみ込んだ。
ユノさんはシフトレバーから手を離すと、私の頭を撫ぜた。
サイドミラーに映るチャンミンのまだら模様は遠くなってゆき、ついには見えなくなった。
「街まで追っかけてくるかもよ?」
「タミーにお守りを任せたから、大丈夫。
タミーはチャンミンの先輩だからね。
吠えてチャンミンを呼び戻してくれるよ」
「ホントに?」
「ああ。
タミーもチャンミンもとても賢い子たちだ。
何をすると俺たちが困るのか、ちゃんと理解しているよ」
診療所に到着した私は、ズキズキ疼く傷口よりも、ぎゅっと縮まった胸の方が痛かった。
幸い診療所の待合室には、腰の曲がったよぼよぼのおじいさんがいるだけで助かった。
診療所の医師は私の顔を眺めまわすことなく、私の傷口だけを見た。
医師は私の事情を承知しているからだ。
看護師の視線だけが気になった。
後で旦那さんや、子供や、ご近所さんに「あの子が来たよ」って言うんだろうな。
処置の間、ユノさんは私の手をずっと握ってくれた。
緊張の汗で濡れていた私の手の平に対し、ユノさんの大きな手の平は温かく、からりと乾いていた。
眉上の切り傷は3針縫っただけで済み、痛み止めを処方してもらい私たちは帰路についた。
「ココアでも飲んで帰るか?」
カフェの看板を見て、ユノさんは私を誘った。
「ううん、いいや」と、私は首を振る...いつものことだ。
「早くお家に帰りたい」
「チャンミンとタミーにお土産を買っていこうか?
留守番のご褒美だよ」
ユノさんの提案に私は大きく頷いて、カフェに寄って、クッキーを13枚とココアを買った。
街を抜け草原の小路にさしかかったとき、ヘッドライトに二対の赤い光が反射した。
「チャンミン!」
境界の木柵の下で、チャンミンがうずくまっていた。
私たちの帰りを待っていたのだ。
タミーもいた。
言うことをきかないチャンミンに、タミーは老体に鞭打ってチャンミンに付き合ってあげたのだろう。
「チャンミン!」
トラックから飛び降りた私は、チャンミンを赤ん坊を高い高いするように抱き上げた。
「お前は馬鹿だねぇ。
ずっとここにいたの?」
「待ちくたびれました」
目の上に貼ったガーゼを避けて、チャンミンは私の頬をべろりと舐めた。
ユノさんもタミーを抱き締め、がしがしと首をかいてやっていた。
チャンミンとタミー、そして私はトラックの荷台に乗って、私たちの家に帰りついた。
夕日はオレンジ色の火の玉となって、草原に落っこちてきそうだった。
草原は夕闇に沈みかけていた。
・
その夜のチャンミンは金魚のフンのように、私の後をついてまわった。
チャンミンなりに私を心配してくれていたのだろう。
「全~然、怒ってないよ。
びっくりしただけだよ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
「自分が悪いんだ。
嫌がることして、ごめんね」
「謝るのは僕の方です。
あなたの顔に傷をつけてしまいました」
チャンミンの瞳の底には、涙の湧き水がある。
眼の表面の涙が膨れ、次のまばたきで目尻からぽろりとこぼれ落ちた。
チャンミンの涙はいくらでも湧いてきて、毛皮を濡らして涙の筋を作った。
垂れ下がる鼻水が床につきそうだった。
「お前は凄いねぇ。
ウミガメみたいに涙を流せるんだね」
「はい。
僕は泣き虫なんですよ」
チャンミンは私に「ごめんなさい」と謝り、私も彼に「自分こそごめんね」と謝った。
眠くなるまでずっと、繰り返した。
(つづく)
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