~秋~
ふり返るとそれらしい看板の裏面が見えた。
この日はよりによって日曜日で、看板の前に小さな映画館がある。
子供向け映画の上演前らしく、親に付き添われた子供たちが辺りをたむろしている。
子供は大人たちよりも、ずっとあからさまな好奇の視線を送ってくるから。
気が進まないけれど、引き返して確認してみるしかない。
「ふぅ...」
深呼吸をした。
私の背中でチャンミンが、「大丈夫、大丈夫」と励ましてくれている。
親の手を握る子供たちを羨ましいなんて、私は思わない。
きびすを返し、早歩きで看板が建つところまで戻った。
看板を見上げて私は、失望の吐息を吐いた。
どうしよう...。
それは役場への案内看板で、動物園の文字はない。
そもそも今歩いている通りが間違っているかもしれない。
二股に分かれていた道を、きっと左に曲がるべきだったんだ。
不安と焦燥で胸が苦しくなった。
早く動物園に行って、ユノさんにタミーのことを伝えて、家に帰ってもらわないといけないのに。
ユノさんの話をじっくり思いだしてみた。
毎日、通勤に商店街を通っていく、なんて話していたっけ?
「誰かに道を尋ねてみたらどうです?」
「...そんな...できっこないよ」
「失礼なことを言う人がいたら、僕が噛みついてあげます」
「噛みつくなんて、ダメだよ」
「それなら、あなたが頑張るしかないですよ。
あなたならできますよ」
「...無理」
「僕はあなたに代わって道を尋ねることができません」
「...そうだね」
「僕はあなたの顔が好きですよ」
私に背負われ、リュックサックの中で身体を丸めているチャンミン。
リュックサック越しに、チャンミンは私の背中をふにふにと揉んだ。
私は意を決して止まってしまった脚を動かし、古本屋の前でノートと鉛筆を取り出した。
客がひとりもいなかったからだ。
店主は「いらっしゃい」も言わない不愛想な初老の男の人で、私を見ても無関心な態度だった。
『動物園までの道を教えてください』
そう書いたページを店主に見せた。
店主は問うように私の顔を見たので、私は自身の喉を指さし、首を振った。
背中のチャンミンはじっと、身じろぎひとつしない。
「歩いていくのか?」
私は頷いた。
「遠いぞ」
店主は私の手から鉛筆を取ると、さらさらと地図を描いてくれた。
やっぱり二股に分かれた道を、左に進まないといけなかったようだ。
返してもらった鉛筆で私は『ありがとう』と書いた。
会釈して店を出ようとした時、
「待ちなさい」
呼び止められて、何か失態をおかしてしまったのか不安になった。
「動物園まで送っていってやる」
きょとんとする私に店主は、
「あそこまでここから5kmもあるんだぞ。
そんなデカい荷物を持ってなんて...。
子供の足じゃ無理だ」
戸惑った私は、「お店はどうするのですか?」を伝える意味で、ぐるりと店内を見回してみた。
「どうせ客なんて来ない」
そう言って店主は、戸を閉め鍵をかけると、札を『CLOSED』へとひっくり返した。
・
道中の店主は無言だった。
私は膝にチャンミン入りのリュックサックを抱えていた。
ユノさんのトラックといい勝負の、古ぼけたワゴンだった。
荷台に本が山と積んであるため、動物園への坂道を上るワゴンは、回転数を上げたエンジン音でうるさかった。
象やキリン、ライオンのイラストが描かれた大きな看板が見えてきた。
「着いたぞ」
私は新しいページに『ありがとう。助かりました』と書いて、店主に見せた。
車から降り、ふと思い至ったことがあり、『お金はいくらですか?』と尋ねた。
「子供から金がとれるか。
これは俺の親切心だ」と、店主はかかかっと笑った。
素直に受け取っていいのか、私は店主を探る目で見ていた。
「代わりに今度、俺んとこで本を買っていけ。
あんたは本が好きそうだ」
『どうしてわかったのですか?』
「本好きの眼をしている。
じゃあ、俺は行くぞ。
店を留守にしているからな」
店主のワゴンは、黒煙をあげながら走り去っていった。
私はここで、店主が私と会話する間、一度も目を反らさなかったことに気付いた。
・
動物園脇の木陰で、チャンミンをリュックサックから出してあげた。
「よく頑張ったね。
窮屈だったでしょ?」
頬かむりをしたチャンミンの身体じゅうを撫ぜ、頬ずりをし、鼻にキスをした。
「すごいねぇ。
よくお利巧さんしていたねぇ。
さすがチャンミンだねぇ」
ありったけの褒め言葉をかけた。
多分、私自身、気持ちが昂っていたのだと思う。
チャンミンも私の顔をよだれでベタベタになるまで、舐めた。
「ほらね。
僕の言ったとおりでしょう?
あなたならできるって、僕は知っていましたよ」
この昂りは...達成感と喜びだ。
その理由は...わざわざ言葉にしなくても分かってる。
・
「もう少しの辛抱だよ」
チャンミンをリュックサックにおさめ、私は立ち上がった。
こころなしか楽々とリュックサックを背負えている気がした。
私はチケット売り場の窓口で、ユノさんを呼び出してもらうよう頼んだ。
窓口のお姉さんはずっと、不信そうな表情だった。
大人に付き添われず、大き過ぎるリュックサックを背負った子供。
加えて、深々とかぶった帽子のせいで口元しか見せておらず、ノートで会話する子供だからだ。
案内された裏の通用門からユノさんが現れたとき、私は彼に抱きついた。
感動のあまり泣いてしまった。
ずっと会いたくてたまらなかった人との感動の再会みたいに。
「うー、うっ、うー」
ユノさんは唸る私をぎゅっと抱きしめて、頭を撫ぜてくれた。
(つづく)
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