(28)君と暮らした13カ月

 

 

~秋~

 

 

後ろ脚に食い込んだ鋭い金属の歯に、チャンミンの後ろ脚は捕らえられていた。

 

チャンミンは小さな顎と小さな歯でもって、果敢に挑んでいた。

 

「くるるる」と喉を震わせている。

 

チャンミンの周囲は円形に落ち葉が蹴散らかされていた。

 

地面に深々とついた爪痕が、チャンミンの苦痛と焦燥と必死さを表わしていた。

 

チャンミンは駆けつけた私たちを見ると、ますます暴れ出した。

 

今すぐこの邪魔なものから逃れ、私の胸に飛び込みたいのだ。

 

「ミンミンはチャンミンを見ていて」

 

そう言ってユノさんはこの場を離れていった。

 

辺りを懐中電灯で照らし、何かを探しているようだった。

 

その間、私はチャンミンを励まし続けた。

 

「すぐに出してあげるからね。

もう少し待っててね。

大丈夫だからね」

 

チャンミンは暴れるのを止めない。

 

暴れるごとに、ノコギリ状の歯がチャンミンの足に食い込んでいく。

 

チャンミンのひづめが血に染まっていた。

 

今度は自身の後ろ足に噛みついた。

 

「何するの!?」

 

罠を壊せないのなら、自分の足を食いちぎろうとしたのだ。

 

「じっとしていなさい!」

 

チャンミンの口吻を力いっぱいつかんだ。

 

石を持って戻ってきたユノさんがチャンミンに命じると、チャンミンは途端に大人しくなった。

 

「俺が合図したら直ぐにここを踏むんだ」

 

ユノさんが指さしたところを確認し、私は大きく頷いた。

 

「ミンミンがここを踏むと、トラバサミは開く。

開いている間に、俺はチャンミンを引っ張り出す。

ミンミンは絶対に足を動かしたらいけない。

分かったか?」

 

「分かった!」

 

チャンミンはぎゅっと目をつむっている。

 

「1、   2の3!」

 

ユノさんの合図に、私は金属製の板を踏んだ。

 

ノコギリ歯の口がぱかっと開き、ユノさんはすかさずそこに石を突っ込んだ。

 

そして、チャンミンは救出された。

 

「やみくもに走り回るんだから。

森は危険でいっぱいなんだよ?」

 

力いっぱい胸にかき抱いた。

 

チャンミンはぺろぺろと私の頬を舐めた。

 

「どうして泣いているのです?

僕はちゃんと生きているのに」

 

と言っているかのようだった。

 

手負いのあなたが、どうして私を慰めるの?

 

踏みつけていた足を持ちあげると、ガシャンと鋭い音を立ててトラバサミは口を閉じた。

 

その音と勢いに、チャンミンの足を襲った激痛を想像すると...。

 

「これをこのままにしておけないな」

 

ユノさんは罠に繋がった鎖を振り回して勢いをつけると、頭上の木の枝に引っかけた。

 

「明日、回収するよ。

チャンミンを家に連れて帰るぞ」

 

 

チャンミンはユノさんに抱かれ、林を抜けた。

 

私は懐中電灯でユノさんの足元を照らす役目を果たした。

 

ユノさんのつなぎにチャンミンの血がしみ込んでいった。

 

珍獣のチャンミンを獣医の元に連れてゆけないし、この時間は既に閉まっている。

 

タミーは落ち着かなげに、私たちの周りをうろついていた。

 

「骨は折れていない。

すごいなぁ、チャンミン。

お前の身体は頑丈だな」

 

タオルの上に寝かせたチャンミンを褒めながら、ユノさんはてきぱきと手当をしていく。

 

チャンミンは呻き声ひとつあげなかった。

 

「『痛い痛い』って鳴いてもいいんだよ?」

 

手当が済むまでずっと、私はチャンミンの前足を握っていた。

 

チャンミンの肉球は熱を帯びていた。

 

「動物というのは、基本的に痛みに強いんだ。

小さな傷にへこたれていたら、厳しい自然の中では生きていけないからね。

犬でも猫でも同じだ。

彼らは具合の悪さを、本能で隠すんだ」

 

ユノさんが言う通り、チャンミンは痛みに強かった。

 

そして、頑丈だった。

 

「凄いねぇ。

チャンミンは偉いねぇ」

 

私は枕と毛布を抱えて居間に戻り、チャンミンの隣に横になった。

 

仰向け寝ができないチャンミンと真正面から見つめ合った。

 

痛みを耐え抜いた証しとして、チャンミンは水気の多い眼をしていた。

 

「ホントは痛かったんでしょ?」

 

「痛くないですよ」

 

「無理しなくていいんだよ。

泣いていいんだよ?」

 

「泣きませんよ。

僕は強いですから」

 

「どうしてあんなところまで行ったの?

心配したんだよ?」

 

「散歩していただけです。

この前見かけたリスはもう冬眠したのかなぁ、って、気になっただけです」

 

「...騙されないよ。

私を心配させたくて、無茶したんでしょ?

私に探してもらいたかったんでしょ?」

 

「...はい」

 

「チャンミンの...馬鹿」

 

「ごめんね」

 

チャンミンは私の手の平の擦り傷を、べろりと舐めた。

 

「私の心配はいいの!

どっかに行っちゃったかと...怖かったんだから!

川に流されたり、熊やオオカミに食べられたりして...死んじゃったんじゃないかって。

ふるさとに帰っちゃったんじゃないかって...」

 

「考え過ぎですよ。

...僕、眠くなってきました」

 

「チャンミン、おやすみ」

 

つぶやいて、チャンミンを抱きしめた。

 

今夜のチャンミンからは血の匂いがした。

 

 

予報は外れた。

 

翌日は雪の一片すら降らず、晴天だった。

 

前日、ムキになって街になど出かけなくてもよかったのだ。

 

私のせいでチャンミンは怪我をした。

 

綺麗に傷が癒え、これまで通り走り回れるようになればいい、と強く強く願った。

 

 

 

ひょこひょこ歩くチャンミンを気遣って、私はチャンミンを抱っこしてばかりいた。

 

あの日から甘えん坊になったチャンミンだった。

 

四六時中、私から離れなかった。

 

トイレにまでついてきた。

 

チャンミンの生命力は素晴らしかった。

 

後遺症もなく、綺麗に治癒した。

 

傷が癒えてからも、しょっちゅう抱っこをされたがった。

 

チャンミンをリュックサックに入れて、私は草原を歩く。

 

頭をぴょこんと出して、遠ざかる私たちの家を眺めているのだろう。

 

草原は黄金色の海のようだった。

 

その波間に足を踏み入れると、驚いたバッタが飛び出し逃げていった。

 

木柵に覆いかぶさるようにススキが生えている一帯があって、綿毛がふわふわ飛んでいる。

 

草原の木柵にもたれ座り、私たちは街を見下ろした。

 

季節のせいか、街並みも茶色に見えた。

 

いつものように、砂糖入りの甘い甘いお茶を飲んでいた。

 

羊たちは畜舎に戻ってしまい、草原は私たちふたりだけだった。

 

「ねぇ、チャンミン。

どこかに行きたい?」

 

何度尋ねただろう。

 

「どこにも行きませんよ」

 

チャンミンの答えはいつも同じだった。

 

「何度言わせるんですか?」といわんばかりに、ふんと鼻を鳴らした。

 

夕日がチャンミンの大きすぎる耳に赤く透けていた。

 

夕日の色なのか、チャンミンの血の色なのか。

 

チャンミンの濡れた鼻はうごめている。

 

街から漂うパンを焼く匂いでも嗅いでいるのだろうか。

 

 

(つづく)

 

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