~秋~
後ろ脚に食い込んだ鋭い金属の歯に、チャンミンの後ろ脚は捕らえられていた。
チャンミンは小さな顎と小さな歯でもって、果敢に挑んでいた。
「くるるる」と喉を震わせている。
チャンミンの周囲は円形に落ち葉が蹴散らかされていた。
地面に深々とついた爪痕が、チャンミンの苦痛と焦燥と必死さを表わしていた。
チャンミンは駆けつけた私たちを見ると、ますます暴れ出した。
今すぐこの邪魔なものから逃れ、私の胸に飛び込みたいのだ。
「ミンミンはチャンミンを見ていて」
そう言ってユノさんはこの場を離れていった。
辺りを懐中電灯で照らし、何かを探しているようだった。
その間、私はチャンミンを励まし続けた。
「すぐに出してあげるからね。
もう少し待っててね。
大丈夫だからね」
チャンミンは暴れるのを止めない。
暴れるごとに、ノコギリ状の歯がチャンミンの足に食い込んでいく。
チャンミンのひづめが血に染まっていた。
今度は自身の後ろ足に噛みついた。
「何するの!?」
罠を壊せないのなら、自分の足を食いちぎろうとしたのだ。
「じっとしていなさい!」
チャンミンの口吻を力いっぱいつかんだ。
石を持って戻ってきたユノさんがチャンミンに命じると、チャンミンは途端に大人しくなった。
「俺が合図したら直ぐにここを踏むんだ」
ユノさんが指さしたところを確認し、私は大きく頷いた。
「ミンミンがここを踏むと、トラバサミは開く。
開いている間に、俺はチャンミンを引っ張り出す。
ミンミンは絶対に足を動かしたらいけない。
分かったか?」
「分かった!」
チャンミンはぎゅっと目をつむっている。
「1、 2の3!」
ユノさんの合図に、私は金属製の板を踏んだ。
ノコギリ歯の口がぱかっと開き、ユノさんはすかさずそこに石を突っ込んだ。
そして、チャンミンは救出された。
「やみくもに走り回るんだから。
森は危険でいっぱいなんだよ?」
力いっぱい胸にかき抱いた。
チャンミンはぺろぺろと私の頬を舐めた。
「どうして泣いているのです?
僕はちゃんと生きているのに」
と言っているかのようだった。
手負いのあなたが、どうして私を慰めるの?
踏みつけていた足を持ちあげると、ガシャンと鋭い音を立ててトラバサミは口を閉じた。
その音と勢いに、チャンミンの足を襲った激痛を想像すると...。
「これをこのままにしておけないな」
ユノさんは罠に繋がった鎖を振り回して勢いをつけると、頭上の木の枝に引っかけた。
「明日、回収するよ。
チャンミンを家に連れて帰るぞ」
・
チャンミンはユノさんに抱かれ、林を抜けた。
私は懐中電灯でユノさんの足元を照らす役目を果たした。
ユノさんのつなぎにチャンミンの血がしみ込んでいった。
珍獣のチャンミンを獣医の元に連れてゆけないし、この時間は既に閉まっている。
タミーは落ち着かなげに、私たちの周りをうろついていた。
「骨は折れていない。
すごいなぁ、チャンミン。
お前の身体は頑丈だな」
タオルの上に寝かせたチャンミンを褒めながら、ユノさんはてきぱきと手当をしていく。
チャンミンは呻き声ひとつあげなかった。
「『痛い痛い』って鳴いてもいいんだよ?」
手当が済むまでずっと、私はチャンミンの前足を握っていた。
チャンミンの肉球は熱を帯びていた。
「動物というのは、基本的に痛みに強いんだ。
小さな傷にへこたれていたら、厳しい自然の中では生きていけないからね。
犬でも猫でも同じだ。
彼らは具合の悪さを、本能で隠すんだ」
ユノさんが言う通り、チャンミンは痛みに強かった。
そして、頑丈だった。
「凄いねぇ。
チャンミンは偉いねぇ」
私は枕と毛布を抱えて居間に戻り、チャンミンの隣に横になった。
仰向け寝ができないチャンミンと真正面から見つめ合った。
痛みを耐え抜いた証しとして、チャンミンは水気の多い眼をしていた。
「ホントは痛かったんでしょ?」
「痛くないですよ」
「無理しなくていいんだよ。
泣いていいんだよ?」
「泣きませんよ。
僕は強いですから」
「どうしてあんなところまで行ったの?
心配したんだよ?」
「散歩していただけです。
この前見かけたリスはもう冬眠したのかなぁ、って、気になっただけです」
「...騙されないよ。
私を心配させたくて、無茶したんでしょ?
私に探してもらいたかったんでしょ?」
「...はい」
「チャンミンの...馬鹿」
「ごめんね」
チャンミンは私の手の平の擦り傷を、べろりと舐めた。
「私の心配はいいの!
どっかに行っちゃったかと...怖かったんだから!
川に流されたり、熊やオオカミに食べられたりして...死んじゃったんじゃないかって。
ふるさとに帰っちゃったんじゃないかって...」
「考え過ぎですよ。
...僕、眠くなってきました」
「チャンミン、おやすみ」
つぶやいて、チャンミンを抱きしめた。
今夜のチャンミンからは血の匂いがした。
・
予報は外れた。
翌日は雪の一片すら降らず、晴天だった。
前日、ムキになって街になど出かけなくてもよかったのだ。
私のせいでチャンミンは怪我をした。
綺麗に傷が癒え、これまで通り走り回れるようになればいい、と強く強く願った。
・
ひょこひょこ歩くチャンミンを気遣って、私はチャンミンを抱っこしてばかりいた。
あの日から甘えん坊になったチャンミンだった。
四六時中、私から離れなかった。
トイレにまでついてきた。
チャンミンの生命力は素晴らしかった。
後遺症もなく、綺麗に治癒した。
傷が癒えてからも、しょっちゅう抱っこをされたがった。
チャンミンをリュックサックに入れて、私は草原を歩く。
頭をぴょこんと出して、遠ざかる私たちの家を眺めているのだろう。
草原は黄金色の海のようだった。
その波間に足を踏み入れると、驚いたバッタが飛び出し逃げていった。
木柵に覆いかぶさるようにススキが生えている一帯があって、綿毛がふわふわ飛んでいる。
草原の木柵にもたれ座り、私たちは街を見下ろした。
季節のせいか、街並みも茶色に見えた。
いつものように、砂糖入りの甘い甘いお茶を飲んでいた。
羊たちは畜舎に戻ってしまい、草原は私たちふたりだけだった。
「ねぇ、チャンミン。
どこかに行きたい?」
何度尋ねただろう。
「どこにも行きませんよ」
チャンミンの答えはいつも同じだった。
「何度言わせるんですか?」といわんばかりに、ふんと鼻を鳴らした。
夕日がチャンミンの大きすぎる耳に赤く透けていた。
夕日の色なのか、チャンミンの血の色なのか。
チャンミンの濡れた鼻はうごめている。
街から漂うパンを焼く匂いでも嗅いでいるのだろうか。
(つづく)
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