初めて彼に触れた時、俺は7歳になったばかりだった。
その肌は温かく、しっとりと人差し指に吸いついてきた。
俺を覗き込んだ1対の眼の美しさに、幼い心でさえ打ち震えた。
あの日、目にした全てのディテールを、俺はひとつ残らず挙げることができる。
初めて愛した人、20年近く俺のそばに居てくれた人...。
死ぬまで愛し続けるだろうこの人は、哀しいことに人間ではない。
・
欄干下の池を一面に、蓮の葉が覆っていた。
時刻は朝方で、辺りの空気は朝靄で淡く煙っていた。
薄い桃色の蓮の花が、あっちにぽかり、こっちにぽかりと咲いていた。
この世のものではない...まるで生と死の狭間でしか見られない幻想的な光景だと思った。
「蓮の花って、たった一日でしぼんでしまうんですって。
...儚いですね」
花には興味がない俺の返事は、「へえ」といった程度の、気のないものだった。
「美しいから儚いのか、儚いから美しいのか...」
俺たちは欄干にもたれ、紙カップ入りの一杯の珈琲を交互に飲んだ。
俺はバゲットを脇に挟んでおり、チャンミンは焼き菓子の入った紙袋を持っていた。
休日の朝の、週に一度の贅沢だった。
「早く帰りましょう。
せっかく焼きたてなのに、冷めてしまいます」
「そうだね」
チャンミンの腰を抱き寄せると、彼は抵抗なく俺にもたれかかった。
そして俺の鎖骨に額を押しつけてきた。
俺の真横にあるチャンミンの眼が、熱っぽく揺らめいている。
わかったよ、と意味をこめて俺は頷いた。
近頃のチャンミンは、俺に甘えてばかりだ。
レンガ敷の靴音は徐々に早くなる。
街はまだ、眠りから覚めていない。
紙コップの珈琲がこぼれる前にと、一気に飲み干そうとして舌を火傷してしまい、「あわてんぼうなんですから」とチャンミンが呆れていた。
「急かすのはチャンミンなんだぞ?」
アパートに到着する頃には、俺たちは小走りになっていた。
エレベーターの鉄扉がガシャンと閉まるなり、俺たちは互いの唇を重ね、口内を舐め尽くした。
バケットと紙袋は床に落ちる。
互いの前を押し付け合う。
チャンミンと肉体的な繋がりを持ったのは5年前、俺が17歳の時だった。
俺は今、チャンミンと二人きりで、この古びたアパートで暮らしている。
日曜日の夕方といえば、寄宿舎に戻る時刻だ。
正午を過ぎた頃から徐々に、17歳の俺は寂しく切ない気持ちに侵食されていく。
チャンミンと5日間、お別れになるからだ。
「まだまだ肌寒いですから、カーディガンも持っていきましょう。
カモミールのティーパックも持っていきましょう。
よく眠れますから。
ほらほら、ユノ!
肝心のノートを入れ忘れてますよ」
バッグに荷物を詰め込む俺の背後から、チャンミンの世話焼き言葉がポンポン降ってくる。
「俺はね、チャンミン。
子供じゃないの」
「ユノはいくつになりましたか?」
「知ってるくせに、さ。
17歳だよ。
もうすぐ学校も卒業だし」
チャンミンはいつまでも俺を子供扱いしたがる。
9歳だよ、12歳だよ、16歳だよ...俺は指折り、大人になるのを今か今かと待ちわびていた。
大人になって、弱いチャンミンを守ってあげたい一心だった。
「チャンミンの寿命って...いくつなの?」
アンドロイドと聞くと、「永遠」の答えが相応しいだろう。
でも俺は、正しい答えを知っていた。
「世の中のものは全て有限です」
「チャンミンも俺とおんなじわけか」
「はい。
食事をし排泄をする。
呼吸をしているだけで、僕は老朽化していっています。
ユノも1分1秒とおじいさんに向かっているのですよ」
チャンミンは人差し指で山を描き、「あなたはまだまだ上り調子です」と言い、その指を頂点から斜め下に描いて「僕は下り調子です」
「そんなんじゃあ、アンドロイドの利点はないじゃないか?」
「ありますよ。
代わりはいくらでもある、という利点がね。
もしユノが望めば、新品の僕と交換できますよ」
チャンミンはたびたび、自虐的なことを口にする。
「馬鹿言うな」
吐き捨てた俺に焦ったチャンミンは、俺の鎖骨の窪みに額を押しつけた。
これはチャンミンが甘える時に決まってする仕草だった。
俺はチャンミンの後ろ髪を梳いてやる。
15歳の夏、心と心を繋げ合った日から、絆はより強化なものへと変化した。
ハグと軽いキス...俺たちの関係は清いものだった。
けれども、17歳の俺はより深い繋がりを欲していた。
(つづく)
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