押しあてられていたチャンミンの唇が、ふっと離れた。
チャンミンの頭で遮られていた光が再び俺を照らした。
俺たちはしばらくの間、無言だった。
俺はチャンミンの方を振り向けなくて、停止した思考のまま、雨粒でリズミカルに揺れるフキの葉を眺めていた。
「...すみませんでした」
チャンミンの掠れた囁き声に、俺は「謝るな」と答えた。
俺はそう言ったけれど、チャンミンは謝って当然なのだ。
使用人の立場で主人に、手を出すようなことをしたのだ。
「手を出す」とは単に暴力をふるうことだけじゃなく、性的な行為...キス以上の肉体的な接触もこれに含まれる。
ルールにのっとれば、チャンミンの行為はアンドロイドにあるまじきことだ。
主人である人間の方から仕掛けたものなら「可」だけど、その逆は「不可」なのだ。
チャンミンがアンドロイドである事実を、俺は憎むようになっていた。
俺の目にはチャンミンは、1人の人間として、男として映っているし、でも現実は、彼は使用人でアンドロイドなのだ。
俺が非力なばっかりに、チャンミンは従兄弟たちにしょっちゅういじめられていた。
殴られるのを防御する腕も、場合によっては彼らを傷つけかねないから、殴られるまま耐えるしかなかった。
「手を出してはならない」ルールを厳格に守ってきたチャンミン...そんな彼が、なぜ?
俺の中では『なぜ?』しかなく、チャンミンの行動を咎める気持ちは全くない。
このキスの意味を知りたかっただけ。
チャンミンから受けたキスは、これで2度目だった。
13歳のある日、学校の正門前で、車のシートで俺は眠ったふりをしていた。
あの時のこと。
アンドロイドも、そういう気持ちになることはあるのだろうか。
...つまり、欲情のようなものを抱くことはあるのだろうか。
チャンミンの腕はまだ、俺の肩を抱いている。
2人分の体温で、濡れていたシャツが乾きかけている。
突然過ぎて頭が真っ白だったのが、今頃になって気持ちが追い付いてきたようだ。
「ねえ、チャンミン。
どうして...俺に?」
「......」
2年前のキスのことも含めて、俺はチャンミンに尋ねた。
そっと視線だけ持ち上げて、チャンミンの横顔を窺った。
あれ...?
チャンミンの顔が真っ赤だった。
「どうして、俺に...したの?」
「えっと...僕も熱が出たみたいですね。
バグです、暴走しちゃったみたいです」
「嘘つき」
チャンミンの肌がひんやりと感じるくらい、俺の方が熱があった。
「ユノ...。
ご主人に頼み事をするなんて、ルール違反ですけど...ですけど」
「ですけど?」
「さっきのこと、忘れてくれますか?」
「どういう意味だよ。
忘れられるわけないよ?」
チャンミンの言葉に心が寒くなって、噛みつくように言い返した。
「ご主人にあんなことするなんて...。
絶対にあってはならないことなんです」
先ほど俺が考えていたのと同じことを、彼の口から聞かされると、哀しい。
「...だから、許してください。
もう二度としませんから。
罰ならいくらでも受けます。
だから僕を...捨てないでください」
「!」
「僕はっ...。
僕の立場からこんなお願いをすること自体が、間違いなんです。
僕は...古くなってきてますし、ここを出たらどこにも貰い手はありません」
家庭教師、子守り、執事、ボディガード、あらゆる職種の補佐...知的で特定な役務を卒業したアンドロイドの行く末は、肉体労務。
それから、優れた容姿を愛でる者たちのためへの慰みものとして。
だから実際は、いくらでも貰い手はあるのだ。
チャンミンもそれは分かっていて、俺に訴えているのだ。
「僕は、僕は...ユノの側にいたいのです。
もうしばらくは、ユノの側に置いてください。
お願いです、あれはちょっとした不具合だったと思って、許してください」
「チャンミン!」
気付けば俺は、チャンミンの首にかじりついていた。
「馬鹿!
そんなこと言うなよ!」
必死に俺にすがるチャンミンが憐れだったこと、そうでもしないとこの場にいられない身分であること。
機嫌を損ねたご主人が、いとも簡単にアンドロイドをお払い箱にすることができる現実。
全部、悲しかった。
なぜって、チャンミンからのキスが嬉しかったんだ。
嬉しいことなのに、許してくれと謝られて、しまいには捨てないでと乞われるんだ。
嬉しかったのに。
驚いたし、チャンミンがどういう気持ちでいたのかは分からないけれど、俺は嬉しかった。
胸がきゅっとなる感じ...心がときめいた。
お腹の底がぞわっとなる感じ...全身の神経がチャンミンに触れられた箇所に集中した。
チャンミンの顔はもちろん、首も胸も腕も腰も全部、生っぽく眩しく映るようになったこの1、2年。
触れたいと思うようになっていた。
そして、触れられたいと思うようにもなっていた。
「チャンミン、大好き」と言って、無邪気に抱きついて、頭を撫ぜられて喜んでいられたような、7歳の少年ではないのだ。
だから、さっきのキスは...嬉しかったんだ。
これって、つまり...?
ああ、なるほど...やっとわかったよ。
「お願いするとか、捨てないでとか。
そういうこと言うな!
思っても駄目だ!
分かった?」
「...でも」
「捨てるわけないだろう?
俺は絶対に、チャンミンを捨てたりしない!」
俺はチャンミンの胸元に、ぐりぐりと額を押しつけて怒鳴った。
「ホントですか?」
「うん。
俺の方こそ、チャンミンがいないと嫌なんだ。
だって、チャンミンは俺の宝物なんだ。
召使だなんて一度も思ったことがないよ」
「...ユノ」
チャンミンを一個人として扱いたいけれど、家族に庇護されている今の俺の立場じゃ、それも叶わない。
「学校を卒業したら、俺、チャンミンを連れてここを出るから。
召使じゃなくしてやるから。
もうちょっと待っててって言うのは、そういう意味なんだよ」
チャンミンは確かに美しい。
俺がチャンミンに見惚れてしまうのは、単に容姿が素晴らしいだけじゃない。
俺の中に存在している、ある感情のせいなんだ。
俺は立ち上がり、チャンミンの両腿の上に向かい合わせに跨った。
泣きじゃくる俺をあやすとき、チャンミンがよくこうやってくれた。
小さかった頃、俺の頭はチャンミンの胸のあたりだったのに、今の俺はチャンミンの頭を超えている。
「ホントだよ。
チャンミンはずーっと、俺の側にいるんだ。
これはご主人からの命令だよ」
俺の胸に引き寄せて、その後頭部を撫ぜた。
俺が何度注意しても直らない猫背を、擦った。
「召使じゃないって、言ってたのに?」
「そこを突かれると困るなぁ。
でもさ、たまにはご主人っぽく命令しないと、チャンミンは遠慮ばっかりしてるし、ホントのことを言ってくれないし...」
「アンドロイドは出しゃばったらいけないのです」
チャンミンは俺の背に両腕を巻きつけて、俺の胸に頭を預けた。
「分かってるよ。
ご主人の命令、って言うからいけないんだな」
俺はふぅっと大きく息を吐いた。
発熱のせいだけじゃなくて、顔は熱いし心臓がドッキドキしている。
「俺の側にずーっといて欲しい。
これは、俺からのお願い。
ご主人だからっていう意味じゃなくて、ひとりの人間として...。
...男として、チャンミンにお願いしたい」
「ユノ...」
俺の胸に埋めていた顔を起こし、チャンミンは俺を見上げた。
いつの間に涙ぐんでいたのか、チャンミンの目尻と鼻先が赤く染まっていた。
涙の潤みの下で、チャンミンの琥珀色の瞳が揺れていた。
誕生日プレゼントの箱から出てきたチャンミンが、俺の前でひざまずき、
『僕の名前を付けて下さい』と覗き込んだその瞳を、子供ながらに綺麗だと感動した。
あの頃と全く変わらない、琥珀色のグラデーションが美しかった。
大雨が小雨に変わり、辺りを包んでいた雨音も弱まってきている。
俺たちの周りだけは、静寂の時が流れていた。
(つづく)
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