俺の部屋の窓から、母さんとユナが庭を散歩している様子が見下ろせた。
日差しが強まる正午近く。
ご婦人方は帰宅したらしい(彼女たちにも家庭があるのだ)
開け放った窓から吹き込む風で、花瓶に活けたシャクヤクの芳香が漂った。
日傘を差した2人は、東屋から戻ってくる途中のようだ。
ゆったりと優雅な足取りで、母さんの笑い声がここまで聞こえてきた。
この後昼食を摂り、軽い昼寝でもするのだろう。
母さんがユナに向ける笑顔は慈愛に満ちており、幸福そのものだった。
念願の娘を得たのだ。
ユナは主人である母さんに可愛がられ、守られている。
ユナは「捨てられるのでは?」と怯える必要はない。
ユナを冷遇することは誰も許されない。
それが父さんであったとしても、母さんは許さない。
この屋敷では母さんの地位は父さんと同等に強く、父さんは母さんのやりたいように、全てを許していた。
なぜなら、かつて財政難だったわが家は、母さんの持参金によって持ち直した過去があるからだ。
ユナは不具合を起こすなど壊れてしまうまでは、大事にされるだろう...と思いかけた時、別の可能性が思いついてしまって心が寒くなった。
もし、母さんが“飽きて”しまった時。
17年間欲し続けた『娘』がやってきたのだから、その可能性は低いが。
チャンミン以外のアンドロイドを案じる気持ちは、ひとえに彼の存在のおかげだろうと思った。
この世には、さまざまなアンドロイド(肉体労働役に徹させるために著しく知能の劣ったタイプや、逆に抜群の知能を与えられたもの、痛みを感じないなど五感をコントロールしたタイプ)がいる。
人間の姿形をしている以上、無下にはできない。
命が宿っていると錯覚してしまう。
いや...宿っていると信じている。
例えそれが犬や猫の姿をしていても、同様だと思った。
・
週末の俺たちは、夕飯は揃って食堂で摂る習慣になっていた。
12人掛けのテーブルは俺とチャンミンの2人だけだ。
ここは女子供や朝食の為の部屋で、父さんや客人がやってくることはない。
屋敷は広いのに、どこにいても緊張状態で、自室以外は気が抜けなかった。
食事中の俺たちの会議は、当たり障りのない内容に終始した。
食堂は給仕につく女中一人だけけど、誰に聞かれているか知れないからだ。
チャンミンと恋人同士になって以降、俺たちは慎重になっていた。
・
特別な夜になりそうな今日は、街で食事をしようと思いついたのだ。
その後、ホテルに一泊するのはどうだろう?
思いついたのは午後になってからで、白樺の小径をチャンミンと歩いていた時のことだ。
夜に近づくにつれ俺の緊張度は高まってゆき、部屋にいても落ち着かず、頭を冷やすためチャンミンを散歩に誘ったのだった。
チャンミンも同様のようで、目が合ったかと思うとすぐに反らしたり、シャツの袖をまくったり下ろしたり、しきりにお茶を勧めたりとソワソワしていた。
今夜、起きるであろうコトを意識しているのだ。
「あ...!」
大事なことを忘れていたことに気づき、俺は声をあげていた。
食事やホテルに宿泊することが叶わなくても、今日中に街まで出かけなければならなかった。
「どうしたのです?」
「今から出掛けよう!」
「えっ!?
どこへですか?」
チャンミンは素っ頓狂な声をあげ、屋敷へと踵を返した俺を追いかけてきた。
「街に用事があるんだ。
車を出してくれる?」
「もちろん。
じゃあ、着替えてきます」
俺はチャンミンのシャツを掴み、引き戻した。
「そのままでいいよ。
チャンミンはいつも、ぴしっとしてるから」
「いや...でも」
チャンミンは白いシャツと黒色のズボンの装いを見下ろした。
「...そうだね、ごめんごめん」
チャンミンが渋る訳が分かった。
今のチャンミンの恰好はいわば制服のようなものだ。
屋敷を離れてからも、坊ちゃんにお仕えする使用人のようで、仕事気分が抜けないのかな、と俺は解釈した。
休日の外出は仕事から離れたいと思うようになってくれたのかな。
真面目一徹だったチャンミンが俺を頼ってくれるようになって、とても嬉しい。
数年前にはみられなかった変化だ。
「そうだ!
街で新しい服を買ってやるよ。
今年の夏服は一枚も新しくしてないでしょ?」
「いいえ、そんな...。
ユノから譲ってもらった洋服があるので、十分です。
買っていただいても、お屋敷では着られないし...」
「屋敷で着られなくても、俺と出掛ける時に着ればいいでしょ?」
「そうですね」
「競争だ!」
俺はダッシュをかけて、屋敷へ向かって走り出した。
「ユノ!
ズルいです!」
レンガの小径は通らず、青々した芝生を斜めに突っ切った。
日頃チャンミンが手入れしている芝生は、均等に刈られていている。
17歳になった俺の足は、チャンミンよりも早い。
華奢な体型のチャンミンよりも、寄宿舎の室内で日々鍛えている俺の方が筋力が上だ。
すぐに屋敷の裏口に到達し、「着替えてきますね」と、地下への階段を下りかけたチャンミンを呼び止めた。
「着替えも用意してきて」
「...着替え?」
首を傾げるチャンミン。
「ああ、一泊するんだ」
「一泊!?
どこに?
今日ですか?」
「うん。
街に出たついでに、ホテルに泊まろうと思って。
俺だけじゃなく、チャンミンも一緒だよ」
「どうして?」
チャンミンはきっと、「そうまでしないといけないくらいに、俺はこの屋敷が嫌いなのか 」と思ったのだろう。
「俺の部屋でもいいけど、今夜は特別だから。
ドアのノックで邪魔されるかもしれない。
そんなの嫌だよ」
「......」
俺が言わんとしていることを、ようやく理解したらしい。
チャンミンの顔がみるみるうちに紅潮していった。
「レストランで食事しよう。
あそこは美味いって、同級生が言ってた店があるんだ。
そこで食事しよう」
この10年間、きちんとしたところでチャンミンと外食したことは一度もなかった。
せいぜい、下町の駄菓子屋でジュースやアイスクリームを買う程度。
好き勝手やったらいけないと、行動にセーブがかかっていたのだ。
そんな自分からもう、卒業だ。
父さんに「チャンミンを決して手放さない」と宣言した。
すぐにも行動に移さないと。
ここで俺は、いいアイデアを思いついた。
「チャンミンにやってもらいたいことがあるんだ」
「ユノのお願いごとなら、何でも」
部屋に戻るなり、俺はサイドテーブルに置いてある電話をデスクに移動させた。
「電話して」
俺は取り上げた電話を、チャンミンの手に押し付けた。
「電話ですか!?」
「うん。
外にかけて欲しいんだ」
「かけたこと無いです...」
困りきったチャンミンは、両眉を下げている。
「やったことが無いから、今から覚えるんだよ。
内線なら何度もかけたことあるだろう?
一緒だよ」
「一緒じゃないです。
知らない人が電話に出るんですよ。
変なことを言っちゃうかもしれません」
チャンミンには未経験のことが沢山ある。
いつか屋敷を出られるようになった時、人間たちと溶け込んで暮らしていけるように成長してもらいたい。
その第一歩が電話だ。
「チャンミンなら出来るよね?」と、ニコニコ顔で圧をかけた。
「...わかりました。
どこに電話をかけるのですか?」
観念したチャンミンは、椅子に腰掛け、耳に受話器をあてた。
「レストランとホテル。
夕食はレストランで摂る。
今夜はホテルに泊まる。
それの予約をして欲しいんだ」
部屋に来る途中、電話室から取ってきた、電話帳をデスクに広げた。
「う~ん...予約の電話ですか...。
うまくできるかどうか...」
「チャンミンなら大丈夫。
賢いし、大人だし...ねっ?」
俺はチャンミンの首に腕をまわし、背もたれごと抱きしめた。
「頑張れ、チャンミン」
チャンミンの耳の下にキスをした。
(つづく)
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