「シム君、成績いいよね」
「君の次にね。
余裕があるんだね」
ゲーム機をあごでしゃくった。
球技大会をサボって、試験勉強をするわけでもなく、ゲームだなんて余裕たっぷりじゃないか。
チョンユンホにジェラシーを覚えた。
陰でこそこそ勉強している自分が、恥ずかしく思えた。
「これはね、息抜きなんだ。
俺、大げさじゃなく一日6時間以上は勉強してるんだよ。
これには、学校の授業は含めてないぞ。
休みの日は、一日中。
俺はがり勉だよ。
人一倍勉強しているから、テストの結果がいいだけのこと。
シム君は、もともと頭がよさそうだね」
「そんなことないよ」
「参加できない球技大会で、もどかしい思いしてストレス溜めたら、試験勉強に影響が出るだろ?
だから、ゲームしてるわけ」
チョンユンホは少しだけ哀しそうな表情だった。
・
「どっちがいい?」
自販機で買ってきたジュースを、ユンホに差し出した。
「お茶は売切れていた。
オレンジジュースとリンゴジュース、好きな方選んで」
「シム君が先に選んでよ。
俺、どちらも好きだから」
『どちらでもいい』じゃなくて、両方好きと言ったのが新鮮だった。
「シム君、弁当は?」
「売店で適当に買ってくるつもりなんだけど?」
「売店なんか行ったら、友達に見つかるぞ。
午後からの試合に引っ張り出されるぞ」
「それは嫌だなぁ」
「俺の弁当分けてあげるよ」
「悪いよ」
「お菓子もいっぱいあるから、大丈夫」
「ありがとう」
「足りなかったら、あとでタコヤキ食べに行こうよ」
「駅前の?」
「行こ行こ」
僕らは顔を見合わせた。
「うん」
ユンホの前で、僕は初めて笑顔を見せた。
・
参考書もノートも、バッグの中だ。
僕は勉強なんてどうでもよくなっていた。
今日はやらない。
「シム君っていつも渡り廊下にいるだろ?」
ユンホの指摘通り、渡り廊下の手すりにもたれ、ぼーっとすることが多かった。
使い過ぎた脳みそを、そよ風に吹かれて冷却したくて。
休憩時間の教室で、試験直前の殺気立った空気に飲み込まれそうで、僕はその場を離れるのだ。
「シム君のさ」
ユンホが指で僕のうなじに触れた。
ぞわっと電流が背筋を流れた。
「ここが、くるん、ってなってる」
僕の髪はくせ毛で、耳の後ろの髪が内巻きにカールしている。
「渡り廊下ですれ違った時、シム君、手すりにもたれてぼーっとしていた。
その時に見たんだ、くるんを。
可愛いなぁ、って思ってたんだ」
男から可愛いと言われて、僕は返答に困ってしまう。
「喜んでいいのか、悪いのか...」
ユンホにはからかっているつもりは、全くないようだった。
しごく真面目にそう言っているのだ。
「可愛いかった」
うっとりそう言ったユンホは、僕を見てふわりと笑った。
「そこ?」
僕は照れ隠しに咳ばらいをした。
「うん、『そこ』
シム君って背も高いし、勉強もできるし、かっこいい」
ユンホの声は、低いのに甘く優しい。
「かっこいいって部分はどうかと思うけど...身長に関してはそうだね」
「それなのに...髪の毛がくるん、ってしてて」
笑顔のユンホの歯が白くて、清潔そうな口元だった。
ユンホこそ、笑顔がめちゃくちゃ可愛かった。
「そこが、いいなって思ったんだ」
「そこ?」
僕も吹き出した。
「テスト結果の表に、俺の左側に並んでるシム君には注目してたんだ」
肩が触れ合わんばかりに接近した僕らの間に、ピンと緊張した空気が流れた。
ユンホの印象的な眼...濃いまつ毛で弓型にふちどられた上まぶたはすっきりとしている...その下の黒い瞳は濡れ濡れとしている。
僕はユンホの後ろを、テストの点数を競って追いかけていた。
競っていたつもりは僕の方だけで、ユンホの方はそんなつもりはなかったと思う。
ユンホの眼に吸い寄せられて、僕は頬を傾けた。
彼の白い顔に、そこだけ紅く色づいた唇が間近に迫った。
・
制服に着替えて、表彰式が行われているグラウンド脇を避けて、裏門から外へ出た。
ユンホのバックを、僕の自転車のカゴに入れてやった。
トートバッグの重さに、彼も必死に勉強をしている身なんだと実感した。
駅までの道のりを、僕は自転車をひいて、ユンホはその隣を歩いた。
いろんな話をした。
それぞれが通っている予備校の、ユニークな講師のこと。
解答欄を1段ずらしてしまった夢をみたこと。
誤植のせいで永遠に解けない問題のこと。
駅前で、やけどしそうに熱いタコヤキを2人で分け合った。
ソースが唇の端についたユンホを見て笑って、シャツの胸元をソースで汚した僕を笑った。
ユンホが差し出した水色のハンカチで拭いたら、ますます汚れが広がってしまって、可笑しくて2人で笑いこけた。
頭の中の公式と単語がこぼれ落ちないよう、常に補充し続けていた僕ら。
眉間にしわをよせ、全身が緊張状態だった僕らが得た、つかの間の小休止だった。
駅についても離れがたくて、学校まで引き返す道中もずっと話をした。
「今日は予備校を休む」
ちろりと舌を覗かせて、ユンホは笑った。
僕の方も忘れていた。
「明日から頑張るから、大丈夫」
日が暮れて、お互いそろそろ帰宅しなければならない時間が迫っていた。
「じゃあ、ね」
「今日は楽しかったー。
それじゃあ、お互い頑張ろう」
改札口へ向かうユンホの手首を、僕は捉えた。
もう一度、と思ったんだ。
顔を近づけると、ユンホも伏し目になって僕を待ち受けていた。
唇同士が触れ合うだけ。
清く、尊いキスだった。
・
ユンホと会話を交わしたのは、あの日限りだった。
理数系校舎に繋がる渡り廊下をうろついて、彼の姿を探した。
休み時間、行きかう生徒たちの中に、彼に似たシルエットを見つけると、思わず顔を伏せてしまった。
恥ずかしかった。
ガリ勉なのに、そうは見えないユンホの姿をずっと探していた。
翌週行われた期末試験結果が張り出されたとき、僕の名前は一番右端にあった。
あり得ないと思って、連なる名前を順に追って探した。
ユンホの名前がなくなっていた。
・
猛烈な受験勉強にも関わらず、僕は第一志望を落とし、第二志望校へ進学した。
浪人生ができるほど、僕の家は経済的余裕がなかった。
得たものがあったのかなかったのか、よく分からない高校生活だった。
ひたすら机に向かっていた3年間だった。
何かを始めるための、準備期間だったんだろうか。
進学できた暁に、その何かを始められたのだろうか。
意識しないうちに、始まっていたんだろうか。
延々と続くかのように思われた重苦しく黒い道程で、
ユンホと過ごした数時間が、ポツンと瞬く光だった。
そう振り返られたのは、ずっとずっと後のこと。
渡り廊下の灰色の床と、白い靴下と白い上履き、制服のズボンの裾。
わんわんと蝉の鳴き声が降り注ぎ、グラウンドからの笛と歓声。
手の平をついた苔むしたコンクリートの湿った感触。
頬を斜めに傾けた先の、彼の紅い唇。
彼の汗の香り。
これら映像と感覚が、僕の記憶に焼き付いている。
得意先に無事サンプル品を届け終え、普段利用しない駅に向かっていた。
初夏を迎え、ネクタイに締め付けられた首まわりが暑苦しかった。
信号が変わり、横断歩道を渡る。
ぎらぎらと照り付ける日光が、シャツの背中を濡らしていく。
彼だとひと目でわかった。
ストライプシャツに細身のブラックデニムを履いていた。
色白なのは変わらないが、肩のラインががっちりとしていた。
雑踏の音が消え、彼の姿に吸い寄せられた。
涙が出そうなくらい、綺麗だった。
僕と目が合ったとき、彼の目が見開いた瞬間を見逃さなかった。
僕は渡りかけた横断歩道を戻って、こちらへ渡ってきた彼と合流した。
「ユンホ君...」
「シム君...?」
パッと笑った口元から、白い歯がこぼれる。
僕の額から汗が噴き出していた。
暑さだけが原因じゃない。
「暑いなぁ」
ユンホが差し出した水色のハンカチを受け取った。
「急いでる?」
「30分くらいなら」
「冷たいものでも、飲もうか?」
「シム君の方こそ、大丈夫なの?
仕事中じゃないの?」
「30分くらい大丈夫!」
始まるか始まらないかなんてわからないだろう?
声をかけなければ、何も始まらないだろう?
まぶしいのは、ぎらつく太陽の光だけじゃない。
ユンホの瞳の中に見つけていた。
見失ってしまったはずの、あの時の瞬く光を。
(おしまい)