(33)時の糸

 

 

 

~チャンミン~

 

 

「はあぁぁ」

 

リビングに残された僕は、大きく息を吐いた。

ユノといると、僕の口からするすると言葉が出てくる。

加えて、ユノは僕をドキドキさせるのがうまい。

時計をみると、既に22時だ。

ユノといると、時間が経つのを忘れてしまう。

こんなに楽しいことは、これまであっただろうか?

 

自分の経験を振り返るのは、止めていた。

深く霧が立ち込めている見通しが悪い道を進んでいるような、

今自分が居る場所を見失ってしまうような、

不安で不快な気分に襲われるからだ。

僕は、今のことだけを見ていたい。

汚れた食器をディッシュウォッシャーへ入れて、スイッチを押す。

​コーヒーを淹れなおした。

キッチンの隅に、白い紙袋があるのに気づいた。

(ユノが持ってきてくれた「お土産」かな?)

 

渡される前に、中身をのぞくのは悪いと思って、そのままにしておいた。

 

 

 

ユノが戻らない。

もう15分も経っている。

​(まさか、帰ってしまった?)

しかし、コート掛けにはユノの赤いコート、その足元にはバッグも残されている。

マンションの廊下は寒い。

 

上着を羽織っていないユノが風邪をひいたらいけない。

まだ電話中でも、コートだけは持っていってやろう。

玄関のドアを開けると、ユノの声が聞こえる。

​(長電話だな)

ユノはこちらに背を向けてエレベーターホールにいる。

イヤホンに指をあてて、会話に集中しているようだ。

ユノにジェスチャーで知らせようとした。

「...だからさ。

彼は...違うって!」

(彼?)

「彼」という言葉に反応してしまい、コートを掛けた腕を思わずひっこめてしまう。

ユノは僕に気づいていない。

「うん...それは分からないよ...日が浅いし...」

​「......彼?

...どうかな」

 

(...『彼』って誰だよ)

僕の胸がギュッと締め付けられる。

​(『彼』って...ユノの...?)

「えー!

今からぁ?」

ユノが大きな声を出し、僕はビクッとした。

​「友達んちにいるからさ。

...違うって!

...男だよ」

(『友達』?

『男』?

...僕のこと?)

僕の胸がますます締め付けられる。

(電話の相手には知らせたくないんだ、僕の家にいることを。

電話の相手は...ユノの恋人か?

ユノが言ってた『彼』って誰のことだ?

『彼』って、Tさんのことかな、カイ君のことかな)

ここまで考えがおよんで、初めて気づく。

僕はユノのことを、ほとんど知らない。

ユノとまとも話をするようになったのは、ほんの数日の間のことで、トータルで12時間もないかもしれない。

「明日でいい?

...じゃあ、いつものお店で」

ユノの電話が終わりそうな気配だったので、僕はユノに気づかれないように静かにドアを開け、部屋へ戻った。

僕は玄関ドアにもたれて、ため息をついた後、天井をあおぎ見た。

「彼」と言ったユノの言葉に動揺している自分がいた。

ユノには、交際している人がいるのかもしれない。

僕の胸がズキズキと痛んだ。

もたれていた玄関ドアが、どんどんと振動した。

​​

電話を終えたユノがドアを叩いているようだ。

オートロック式だから、カギが無ければ部屋には入れない。

​(チャイムを鳴らせばいいのに...)

意地悪をしてユノを締め出してもよかったくらい、僕は腹を立てていたけど、彼に風邪をひかせたくなかったから、ドアを開けてやった。

「寒い寒い!」

ユノは両腕をさすりながら部屋へ入ってきた。

「ずいぶんと長い電話だったね」

知らず知らずのうち、言い方が嫌味になってしまう。

ユノがぎくりとしたように見えたのは、僕の気のせいだろうか。

 

(つづく)

 

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