チャンミンは薬局に飛び込んだ。
(何をもっていってあげたらいいかな)
腕にかけた買い物かごに、ココアの箱、ポテトチップス、マシュマロ、チョコレート。
(これじゃあ、ユノを子供扱いしてるみたいだ!
のど飴、冷却シート、解熱剤...お腹を壊しているかもしれないから胃腸薬も。
ユノが欲しがるものってなんだろ?)
ユノの持ち物や話し方、着ている洋服、雰囲気から、チャンミンは必死に想像力を働かせた。
(青りんご味の歯磨き粉?
...へぇ、面白そうだな)
「あっ!」
チャンミンが後ずさった時、背後で小さな悲鳴が上がった。
「ああ!
すみません!」
チャンミンの背中に押されてよろけたその女性の腕を、素早くつかんで支えた。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ」
その女性は腕を支えるチャンミンを見上げると、ハッとするように目を見開いた。
あまりにまじまじと彼が見つめてくるので、居心地が悪くなったチャンミンは、自分が女性の腕をつかんだままだった手を離した。
「すみません。
......えっと...何か?」
肩までの髪、少したれ目の優しそうな目元、低めの身長、淡い水色のコート。
「覚えていませんか?」
女性の指が、商品棚に並ぶボトルのひとつを指さした。
「ああ!
あの時の」
数日前、どの洗剤を選んだらいいか迷っていたチャンミンは、この女性からアドバイスをもらっていた。
「あの時は、助かりました」
チャンミンは照れたように微笑して、女性に軽く会釈した。
「このお店には、よく買い物に来られるんですか?」
女性はそう質問しながらも、チャンミンを観察する視線を注いだままだ。
(ずいぶんと僕のことを、じろじろ見るんだな)
再び居心地が悪くなったチャンミン。
(世間話とか雑談とか...苦手なんだよ)
「職場が近くなんです。
ネットじゃ間に合わないものが欲しい時に、便利なので」
話を切り上げてその場を去ろうとしたチャンミンを、女性は呼び止めた。
「あの!」
「はい?」
不機嫌な表情を消してチャンミンはふり返った。
(僕は早くユノのところに行きたいんだ)
「あなたのお名前は?」
「?」
(名前?)
「変なことを聞いてごめんなさい。
びっくりしますよね」
(びっくりするに決まってるだろ。
急に名前を聞かれるなんて)
チャンミンは、こちらの心の準備ができる前に、唐突に距離を縮めてくる者が苦手だった。
チャンミンには親しい者(現在はユノ)と、それ以外の者しかいない。
それ以外の者には、できれば遠くにいて欲しい。
女性の顔は真っ赤になっている。
「本当にごめんなさい。
忘れてください」
頭を何度も下げる女性を見て、チャンミンの方が申し訳ない気持ちになってきた。
(勿体ぶるつもりはない。
名前くらい、どうってことないし)
「チャンミンです。
僕の名前は、チャンミンです」
チャンミンの言葉を聞いて、女性は片手を口で覆い、彼を見つめる目がますます見開いた。
何をそんなに驚くことがあるんだろうと、チャンミンは不愉快になってきた。
(人の名前を聞く前に、先に名乗るのが礼儀だろう?)
チャンミンは、女性の返事を待った。
「ごめんなさい!
私はKと申します。
この薬局の上に住んでいます。
ここは2階から上がマンションになっているんです」
「はあ、そうですか...」
(Kとかいう人が、どこに住んでいるかなんて、別に知りたくもない)
Kは頬にかかった髪を耳にかけると、チャンミンの買い物カゴをちらっと見た。
「マスカット味のマウスウォッシュも、おすすめですよ」
「はあ」
(意味が分からない。
素直に従っておけば、角が立たないだろう)
Kにすすめられるまま、そのマウスウォッシュのボトルをカゴに入れ、精算をするためレジに向かった。
「あの!」
また呼び止められて、今度は不機嫌さを隠さずふり返った。
(今度は何だよ?)
「何か?」
「チャンミンさんは、もしかして...。
XX高校の卒業生ですか?」
「XX高校...?」
チャンミンは立ち止まって、意識を過去へ巡らせようとしたが、
(いけない!)
眩暈がしそうで、チャンミンは慌てて目をつむった。
「いいえ、違います」
固い声で答えると、てきぱきと精算を済ませて大股で、早足で店を出ていった。
そんなチャンミンの後ろ姿を、キリがくいいるように見つめ続けていたことも、彼女の目が充血していたことも、チャンミンは気付いていなかった。
・
(「違います」と、とっさに答えたけれど、正確に言うと、『覚えていない』んだ。
高校?
僕にも学生だった時代があったに違いないけれど、
あまりにも薄ぼんやりと生きてきたからか、印象に残るような出来事を覚えていない。
思い出そうとしても、濃い霧の中をさ迷うかのように、右も左も分からなくなって...立っているのか座っているのかも分からなくなって...眩暈がする)
チャンミンは立ち止まった
(僕の頭は、何かしら問題を抱えている。
頭が痛いのもそのせいだ。
過去のことを思い出せない。
高校生だった頃のことはおろか、1年前のこともあいまいだ。
もしかしたら、思い出せないのではなく、少しずつ忘れていっているのかもしれない。
僕の過去が、少しずつ損なわれていっているのかもしれない)
チャンミンは白い息を吐くと、ユノの住むマンションを見上げた。
(つづく)