(53)時の糸

 

 

 

チャンミンは薬局に飛び込んだ。

 

(何をもっていってあげたらいいかな)

 

腕にかけた買い物かごに、ココアの箱、ポテトチップス、マシュマロ、チョコレート。

 

(これじゃあ、ユノを子供扱いしてるみたいだ!

のど飴、冷却シート、解熱剤...お腹を壊しているかもしれないから胃腸薬も。

ユノが欲しがるものってなんだろ?)

 

ユノの持ち物や話し方、着ている洋服、雰囲気から、チャンミンは必死に想像力を働かせた。

 

(青りんご味の歯磨き粉?

...へぇ、面白そうだな)

 

「あっ!」

 

チャンミンが後ずさった時、背後で小さな悲鳴が上がった。

 

「ああ!

すみません!」

 

チャンミンの背中に押されてよろけたその女性の腕を、素早くつかんで支えた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「え、ええ」

 

その女性は腕を支えるチャンミンを見上げると、ハッとするように目を見開いた。

 

あまりにまじまじと彼が見つめてくるので、居心地が悪くなったチャンミンは、自分が女性の腕をつかんだままだった手を離した。

 

「すみません。

......えっと...何か?」

 

肩までの髪、少したれ目の優しそうな目元、低めの身長、淡い水色のコート。

 

「覚えていませんか?」

 

女性の指が、商品棚に並ぶボトルのひとつを指さした。

 

「ああ!

あの時の」

 

数日前、どの洗剤を選んだらいいか迷っていたチャンミンは、この女性からアドバイスをもらっていた。

 

「あの時は、助かりました」

 

チャンミンは照れたように微笑して、女性に軽く会釈した。

 

「このお店には、よく買い物に来られるんですか?」

 

女性はそう質問しながらも、チャンミンを観察する視線を注いだままだ。

 

(ずいぶんと僕のことを、じろじろ見るんだな)

 

再び居心地が悪くなったチャンミン。

 

(世間話とか雑談とか...苦手なんだよ)

 

「職場が近くなんです。

ネットじゃ間に合わないものが欲しい時に、便利なので」

 

話を切り上げてその場を去ろうとしたチャンミンを、女性は呼び止めた。

 

「あの!」

 

「はい?」

 

不機嫌な表情を消してチャンミンはふり返った。

 

(僕は早くユノのところに行きたいんだ)

 

「あなたのお名前は?」

 

「?」

 

(名前?)

 

「変なことを聞いてごめんなさい。

びっくりしますよね」

 

(びっくりするに決まってるだろ。

急に名前を聞かれるなんて)

 

チャンミンは、こちらの心の準備ができる前に、唐突に距離を縮めてくる者が苦手だった。

 

チャンミンには親しい者(現在はユノ)と、それ以外の者しかいない。

 

それ以外の者には、できれば遠くにいて欲しい。

 

女性の顔は真っ赤になっている。

 

「本当にごめんなさい。

忘れてください」

 

頭を何度も下げる女性を見て、チャンミンの方が申し訳ない気持ちになってきた。

 

(勿体ぶるつもりはない。

名前くらい、どうってことないし)

 

「チャンミンです。

僕の名前は、チャンミンです」

 

チャンミンの言葉を聞いて、女性は片手を口で覆い、彼を見つめる目がますます見開いた。

 

何をそんなに驚くことがあるんだろうと、チャンミンは不愉快になってきた。

 

(人の名前を聞く前に、先に名乗るのが礼儀だろう?)

 

チャンミンは、女性の返事を待った。

 

「ごめんなさい!

私はKと申します。

この薬局の上に住んでいます。

ここは2階から上がマンションになっているんです」

 

「はあ、そうですか...」

 

(Kとかいう人が、どこに住んでいるかなんて、別に知りたくもない)

 

Kは頬にかかった髪を耳にかけると、チャンミンの買い物カゴをちらっと見た。

 

「マスカット味のマウスウォッシュも、おすすめですよ」

 

「はあ」

 

(意味が分からない。

素直に従っておけば、角が立たないだろう)

 

Kにすすめられるまま、そのマウスウォッシュのボトルをカゴに入れ、精算をするためレジに向かった。

 

「あの!」

 

また呼び止められて、今度は不機嫌さを隠さずふり返った。

 

(今度は何だよ?)

 

「何か?」

 

「チャンミンさんは、もしかして...。

XX高校の卒業生ですか?」

 

「XX高校...?」

 

チャンミンは立ち止まって、意識を過去へ巡らせようとしたが、

 

(いけない!)

 

眩暈がしそうで、チャンミンは慌てて目をつむった。

 

「いいえ、違います」

 

固い声で答えると、てきぱきと精算を済ませて大股で、早足で店を出ていった。

 

そんなチャンミンの後ろ姿を、キリがくいいるように見つめ続けていたことも、彼女の目が充血していたことも、チャンミンは気付いていなかった。

 

 

 

 

(「違います」と、とっさに答えたけれど、正確に言うと、『覚えていない』んだ。

 

高校?

 

僕にも学生だった時代があったに違いないけれど、

あまりにも薄ぼんやりと生きてきたからか、印象に残るような出来事を覚えていない。

 

思い出そうとしても、濃い霧の中をさ迷うかのように、右も左も分からなくなって...立っているのか座っているのかも分からなくなって...眩暈がする)

 

 

チャンミンは立ち止まった

 

 

(僕の頭は、何かしら問題を抱えている。

 

頭が痛いのもそのせいだ。

 

過去のことを思い出せない。

 

高校生だった頃のことはおろか、1年前のこともあいまいだ。

 

もしかしたら、思い出せないのではなく、少しずつ忘れていっているのかもしれない。

 

僕の過去が、少しずつ損なわれていっているのかもしれない)

 

 

チャンミンは白い息を吐くと、ユノの住むマンションを見上げた。

 

 

(つづく)