~チャンミン~
あの夜。
帰宅した僕は真っ先にシャワーを浴びた。
ユノの部屋を出て、火照った身体を覚ましたくて、タクシーは止めて氷点下の寒空の下、歩いて帰ることにしたのだ。
もんもんと頭の中で渦巻く想いを吹っ切りたくて、早歩きだったのが小走りになり、駆け足になり、マンション下に着くころには汗だくで息も切れそうだった。
脱いだコートを腕にひっかけ、エレベータで階数ランプを見上げている間、僕の鼓動は壊れそうに早い。
その理由は、走ったせいなのか、身体の奥底から湧き上がる妙な感情のせいなのか、わからなかった。
そんな訳のわからない心の嵐を吹っ切りたくて、冷水のシャワーを頭からかぶる。
下腹の底の、重ったるい感覚。
この感覚は、単なる生理現象で片付けられない。
『そういう気満々だろ?』とユノに言われて、理性を失くした自分の行為が恥ずかしくなった。
ユノと間近で接すると、ユノにもっと近づきたいという衝動に襲われるんだ。
『そういうこと』が、どういうことなのかは、知識として知っている。
うろ覚えの僕の過去をどれだけ頭を振り絞ってみても、全く身に覚えがないのだ。
だから、男性に対して『そういう感情』を抱くのはこれが初めてなんだろう。
顎がガチガチと震うまで全身を冷やしたのち、今度は火傷しそうなくらい熱いシャワーに切り替えた。
自身の肉体をいじめて、もんもんとした感覚を追い出したくて。
今までの僕は、こんな風じゃなかったのに。
体調の悪いユノに無理やりキスをしたり。
押し倒したり。
...一体何やってんだよ。
恥ずかしい限りだけど、あの時は沸き起こった欲求に突き動かされていて、気付いてたらそうしてた。
白く曇った鏡を片手で拭って、雫をしたたらせ、上気した自分の顔を映してみる。
以前、ユノが浴室に乱入してきた時も、こんな風に鏡に映った自分を子細に眺めていた。
普段から自分の顔をこうやって検分するように見ることはないし、自分の身体つきがどんなだかにも興味はない。
休日のルーティンにジム通いを組み込んでいるのは、身軽に健康でいたいだけのこと。
一瞬、視界が揺れたかと思うと、がくんと膝の力が抜けた。
反射的に洗面ボウルをつかんだ手によって、崩れ落ちるのを免れた。
鏡の中の自分と目を合わせるのは、やっぱり危険だ。
鏡に映るこの顔が、自分のものなんだという実感が希薄なことを、思い知るからだ。
こめかみがずきずきとうずいてきた。
頭痛の前兆。
俯いていた頭を起こすと、足先から膝、太もも、下腹部へと順に視界に入る。
僕の目に映る身体にさえも、違和感がある。
ドキドキするとか、嬉しいとか、いい匂いだなとか、柔らかいなとか...五感は確かに自分のものなのに、それを感じる僕の身体が、自分のものじゃない気がする。
僕はやっぱり、おかしい。
こんな風じゃなかったのに。
一人でいると、不安と困惑に襲われる。
ユノのベッドにもぐりこんで、背中に彼の体温を感じたかった。
この日は通常より2時間早く終業し、落ち葉焚きが開始された。
スタッフたちの家族や友人たちも参加し、アルコールもOKで、くだけたムードで皆が笑顔だった。
同僚のMは、目下アタック中だという男性を招待していた(外国語教室の講師なのだそう)
ユノは、SとSの夫Uを友人として呼んでいた。
Sにしてみたら、ユノの担当であるチャンミンを観察する目的もあり、半分は仕事を兼ねている。
UはSの元被験者で、小柄で線の細い、眼鏡をかけた大人しそうな男性だ。
キビキビとしたSとは対照的だが、目配せだけで通じ合う信頼関係が二人の間で築かれているようだ。
SはUの観察者を3年務めた。
エプロン姿のユノは、エントランスまでSたちを出迎え、落ち葉焚き会場のドームまで案内した。
「差し入れです」
Uはアルコールのボトルを掲げてみせた。
ユノに案内されて、Sは目がくらみそうに高いドームの天井を見上げ、感嘆の声を漏らす。
「ねぇ、ユノ、大丈夫なの?」
「大丈夫?って何が?」
「焚火、っていったら、火だよ?
あの子...平気なの?」
Sの質問に、ユノは肩をすくめる。
「さあ、分かんない。
もしかしたら、フラッシュバックして意識失うかもしれないから、それに備えてSを呼んだわけさ。
チャンミンに『参加したら駄目』なんて言えないよ。
まさか、こんなイベントがあるとは思わなかった」
「強い刺激も、かえっていいかもしれないわね。
反応が一気に進めば、お目付け役もいらなくなるから。
...ユノ、複雑でしょ?」
「うん」
(嬉しい反面、寂しいってのは確かだ。
チャンミンの担当を外れたら、もう近くにはいられない)
(つづく)
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