~ユノ33歳~
商談に使っているテーブルでチャンミンは、ノートと参考書を広げている。
俺は、パステルで下描きしたキャンバスに、下塗りの色をのせていた。
乾いたそばから、前に塗った色の反対色を塗り重ねていく。
アクリル画の場合、油彩画に比べて平坦に仕上がりがちなため、幾重にも重ね塗りすることで色に深みが出るのだ。
急きょ着手した新たな作品では、半裸の青年がスツールに軽く腰掛けている。
レースのカーテンから漏れる淡い光が、身体のラインを白く曖昧にさせている。
そして彼は横顔を見せたまま、前方の何かを見据えている。
ブルーデニムを履いた彼に、何か小道具を持たせたかった。
今のところ、空気の塊を抱いているかのように、彼の両腕の中は空だった。
視線を感じて振り向くと、制服姿のチャンミンと目が合った。
チャンミンは目を反らさない。
どれくらい前から、こちらを見つめていたのかは分からない。
「今日はサボらせてしまったな」
「いいんです。
義兄さんに会いたかったので...」
あどけない表情に、「この子は、まだ高校生なんだ」と胸苦しくなる。
俺がこの子にしてしまったこと。
この子に用意してあげられない俺たちの未来。
チャンミンとの交際は、罪悪感とスリルと隣り合わせで、若い彼にしてみたら刺激に満ちたものに映っているだろう。
俺のような男に溺れさせたことに責任を感じていたのに、最初に溺れたのは俺の方だったんだな。
今朝のBの言葉に冷や水をかけられた思いをした。
ハッと我に返り、混乱した感情を処理したくてチャンミンを呼び出した。
当分口にしないつもりでいた「好きだ」の言葉を、発してしまった。
そのことを後悔し始めていた。
シャワーが降り注ぐ下、チャンミンは俺の指だけで達した。
指一本触れなかったそこから、壁に跳ね飛んでとろりと垂れた。
壁に片頬をつけたまま、ずるずると床に崩れ落ちる手前で、俺に抱きかかえられた。
失神してしまったチャンミンを前に、俺の質問は宙に浮いたままとなった。
チャンミンは、俺が知らない世界、俺が知らない顔を持っている。
週に1度の繋がり、それ以外の6日間、チャンミンが何をしているのか、俺は知らない。
無垢そうな眼をしていて、その実、違うのかもしれない。
姉の夫と、それも17も年上の男と身体の繋がりを持つことなんて、チャンミンにしてみたら大したことじゃないのだ。
持ち前の美貌を活かして若い性欲を解消させるだけじゃなく、自身の美貌にひれ伏す者たちを内心であざ笑っているんだろう。
...俺ときたら、一体何を考えているんだ?
チャンミンを穢すようなことを考える自分に、嫌気がさした。
俺自身も、他人のことをとやかく言えない。
妻の弟と不倫中だ。
その不倫相手には、顔の知らない誰か...別の男がいる。
少しだけ、安心している自分がいた。
今の俺はチャンミンとどうこうしたくても、身動きが取れない。
チャンミンが何をしようと、俺には彼を縛る資格はない。
「義兄さんに初めて『好き』と言われて...嬉しかったです」
キャンバスを前に、物思いにふけっていた俺は空を睨んだままで、すぐ真横に立ったチャンミンに気付かなかった。
「でも...義兄さんは結婚しているでしょう?」
「ああ。
俺は結婚している。
それなのに、チャンミンと...いわゆる...不倫だ」
「...不倫...そうですね」
「離婚されても、おかしくないな」
「黙っていればいいじゃないですか?
今までのように。
これからも、黙っていればいいんです」
チャンミンは、あっけらかんとそう言った。
失うもののない無責任な発言は、若者らしかった。
夕方5時を過ぎ、帰宅するチャンミンを送り出す時、とっさに呼び止めた。
「はい?」
「身体を大事にしろ」
「...え?」
「お前の交友関係に口を出す資格は、俺にはない。
でも、お前は義弟だ。
無茶はするな」
チャンミンは首を傾げていたけど、俺の言わんとしていることの意は分かっていたはずだ。
「...何を言いたいのか...意味が分かりません...」
消え入りそうな語尾と、震えた小声。
鎌をかけてみたらビンゴ、『当たり』だった。
何度もこちらを振り返るチャンミン。
チャンミンがエレベーターの扉に消えるまで、俺は腕を組み、玄関ドアにもたれていた。
チャンミンが俺以外の「誰」と関係を持っているかなんて、知りたくもない。
ちょうどよかった。
負った責任と罪の意識が和らいだ気がしたんだ。
チャンミンの関心の的が俺以外の誰かにある可能性は、甚だ不快な事だ。
「好きです」の連呼に、飲み込まれそうになったが、俺には妻がいる。
チャンミンを責める資格も、それどころか嫉妬する資格も俺にはないのだ。
~チャンミン16歳~
義兄さんに気づかれた。
シャワールームで問われた時、僕は快感に浸りきっていて、もっともらしい言い訳が思いつかなかった。
不意打ち過ぎたんだ。
中を乱暴にかき回されて、立っていられなかった。
自分で慣らした、って答えたけど、義兄さんは信じなかった。
ヤキモチを妬いてくれたのなら、いいのだけれど。
そんな甘いものじゃなかった。
『身体を大事にしろ』
僕の身体はその言葉に、凍り付いてしまった。
義兄さんの目はしんと冷えていて、その漆黒は穿たれた底無しの穴だった。
怖かった。
あれは...軽蔑の眼だ。
・
義兄さんの信用を回復させるために、僕はどうすればいいんだろう。
僕は頬杖をついて、板書する教師の背中のストライプ柄を、数えていた。
クラスメイトたちを見回してみる。
どいつもこいつもガキくさくて、見劣りした。
「...チャンミン」
隣席の生徒に腕をつつかれるまで、自分の名が呼ばれていたことに気付かなかった。
席を立ち、すらすらと解答を述べる僕に、その教師は苛立たし気だった。
額の広いその教師に、以前迫られた時があった。
そうじゃないかと思って大人しくしていたら、お尻を撫ぜられ、実験準備室に誘われた。
キスしようと近づいた彼に、僕は大袈裟なくらい大きな悲鳴をあげてみせた。
彼はそれ以上のことは諦め、以来、僕に訴えられるのを恐れて、怯えた目で僕を見るようになった。
それでも、僕に拒絶されプライドを傷つけられた恨みはしつこい。
敢えて難しい設問を僕に投げかけてくることも、度々だった。
どいつもこいつも。
ひそひそと僕を噂する女子生徒たちの前を、足早に通り過ぎる。
選択教科棟に向かう途中、渡り廊下の手すりにもたれ、校庭のずっと先を眺めた。
初夏の日光が、じりじりと半袖の腕を焼く。
僕は義兄さんとどうなりたいんだろう。
僕の頭は、義兄さんのことで占められている。
昼休み終了まで15分もある。
外は暑すぎて、選択教室でひとり考え事にふけろうと、がらりと引き戸を開けた。
突然の僕の登場に、男子生徒と女子生徒が弾かれたように、身体を離した。
男子の方は、膝までずり落ちたスラックスを上げ、女子の方もたくし上げられたブラウスを直している。
僕は2人に構わず、席についた。
人目を盗んでヤッてたわけか...。
僕と義兄さんも同じようなものだ。
同い年同士でくっつく彼らが、子供っぽいと思った。
僕なんてうんと年上の、それもとても綺麗な人と繋がっているんだ。
僕はその人の『愛人』なんだ。
義兄さんの愛人...なんて素敵な響きなんだろう。
義兄さんを独り占めにしたいと思わないのが、僕の心の複雑なところだ。
僕ひとりじゃ、身に余る。
『愛している』
死ぬほど嬉しかった。
でも、受け止めきれない。
義兄さんの瞳に僕が映るのは、2人でいる時だけでいい。
未熟で、穢れている僕には、義兄さんの愛を丸ごと受け取る者に値しないんだ。
(つづく)
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