義弟(34)

 

 

~ユノ33歳~

 

商談に使っているテーブルでチャンミンは、ノートと参考書を広げている。

 

俺は、パステルで下描きしたキャンバスに、下塗りの色をのせていた。

 

乾いたそばから、前に塗った色の反対色を塗り重ねていく。

 

アクリル画の場合、油彩画に比べて平坦に仕上がりがちなため、幾重にも重ね塗りすることで色に深みが出るのだ。

 

急きょ着手した新たな作品では、半裸の青年がスツールに軽く腰掛けている。

 

レースのカーテンから漏れる淡い光が、身体のラインを白く曖昧にさせている。

 

そして彼は横顔を見せたまま、前方の何かを見据えている。

 

ブルーデニムを履いた彼に、何か小道具を持たせたかった。

 

今のところ、空気の塊を抱いているかのように、彼の両腕の中は空だった。

 

視線を感じて振り向くと、制服姿のチャンミンと目が合った。

 

チャンミンは目を反らさない。

 

どれくらい前から、こちらを見つめていたのかは分からない。

 

「今日はサボらせてしまったな」

 

「いいんです。

義兄さんに会いたかったので...」

 

あどけない表情に、「この子は、まだ高校生なんだ」と胸苦しくなる。

 

俺がこの子にしてしまったこと。

 

この子に用意してあげられない俺たちの未来。

 

チャンミンとの交際は、罪悪感とスリルと隣り合わせで、若い彼にしてみたら刺激に満ちたものに映っているだろう。

 

俺のような男に溺れさせたことに責任を感じていたのに、最初に溺れたのは俺の方だったんだな。

 

今朝のBの言葉に冷や水をかけられた思いをした。

 

ハッと我に返り、混乱した感情を処理したくてチャンミンを呼び出した。

 

当分口にしないつもりでいた「好きだ」の言葉を、発してしまった。

 

そのことを後悔し始めていた。

 

シャワーが降り注ぐ下、チャンミンは俺の指だけで達した。

 

指一本触れなかったそこから、壁に跳ね飛んでとろりと垂れた。

 

壁に片頬をつけたまま、ずるずると床に崩れ落ちる手前で、俺に抱きかかえられた。

 

失神してしまったチャンミンを前に、俺の質問は宙に浮いたままとなった。

 

チャンミンは、俺が知らない世界、俺が知らない顔を持っている。

 

週に1度の繋がり、それ以外の6日間、チャンミンが何をしているのか、俺は知らない。

 

無垢そうな眼をしていて、その実、違うのかもしれない。

 

姉の夫と、それも17も年上の男と身体の繋がりを持つことなんて、チャンミンにしてみたら大したことじゃないのだ。

 

持ち前の美貌を活かして若い性欲を解消させるだけじゃなく、自身の美貌にひれ伏す者たちを内心であざ笑っているんだろう。

 

...俺ときたら、一体何を考えているんだ?

 

チャンミンを穢すようなことを考える自分に、嫌気がさした。

 

俺自身も、他人のことをとやかく言えない。

 

妻の弟と不倫中だ。

 

その不倫相手には、顔の知らない誰か...別の男がいる。

 

少しだけ、安心している自分がいた。

 

今の俺はチャンミンとどうこうしたくても、身動きが取れない。

 

チャンミンが何をしようと、俺には彼を縛る資格はない。

 

「義兄さんに初めて『好き』と言われて...嬉しかったです」

 

キャンバスを前に、物思いにふけっていた俺は空を睨んだままで、すぐ真横に立ったチャンミンに気付かなかった。

 

「でも...義兄さんは結婚しているでしょう?」

 

「ああ。

俺は結婚している。

それなのに、チャンミンと...いわゆる...不倫だ」

 

「...不倫...そうですね」

 

「離婚されても、おかしくないな」

 

「黙っていればいいじゃないですか?

今までのように。

これからも、黙っていればいいんです」

 

チャンミンは、あっけらかんとそう言った。

 

失うもののない無責任な発言は、若者らしかった。

 

夕方5時を過ぎ、帰宅するチャンミンを送り出す時、とっさに呼び止めた。

 

「はい?」

 

「身体を大事にしろ」

 

「...え?」

 

「お前の交友関係に口を出す資格は、俺にはない。

でも、お前は義弟だ。

無茶はするな」

 

チャンミンは首を傾げていたけど、俺の言わんとしていることの意は分かっていたはずだ。

 

「...何を言いたいのか...意味が分かりません...」

 

消え入りそうな語尾と、震えた小声。

 

鎌をかけてみたらビンゴ、『当たり』だった。

 

何度もこちらを振り返るチャンミン。

 

チャンミンがエレベーターの扉に消えるまで、俺は腕を組み、玄関ドアにもたれていた。

 

チャンミンが俺以外の「誰」と関係を持っているかなんて、知りたくもない。

 

ちょうどよかった。

 

負った責任と罪の意識が和らいだ気がしたんだ。

 

チャンミンの関心の的が俺以外の誰かにある可能性は、甚だ不快な事だ。

 

「好きです」の連呼に、飲み込まれそうになったが、俺には妻がいる。

 

チャンミンを責める資格も、それどころか嫉妬する資格も俺にはないのだ。

 

 


 

 

~チャンミン16歳~

 

義兄さんに気づかれた。

 

シャワールームで問われた時、僕は快感に浸りきっていて、もっともらしい言い訳が思いつかなかった。

 

不意打ち過ぎたんだ。

 

中を乱暴にかき回されて、立っていられなかった。

 

自分で慣らした、って答えたけど、義兄さんは信じなかった。

 

ヤキモチを妬いてくれたのなら、いいのだけれど。

 

そんな甘いものじゃなかった。

 

『身体を大事にしろ』

 

僕の身体はその言葉に、凍り付いてしまった。

 

義兄さんの目はしんと冷えていて、その漆黒は穿たれた底無しの穴だった。

 

怖かった。

 

あれは...軽蔑の眼だ。

 

 

義兄さんの信用を回復させるために、僕はどうすればいいんだろう。

 

僕は頬杖をついて、板書する教師の背中のストライプ柄を、数えていた。

 

クラスメイトたちを見回してみる。

 

どいつもこいつもガキくさくて、見劣りした。

 

「...チャンミン」

 

隣席の生徒に腕をつつかれるまで、自分の名が呼ばれていたことに気付かなかった。

 

席を立ち、すらすらと解答を述べる僕に、その教師は苛立たし気だった。

 

額の広いその教師に、以前迫られた時があった。

 

そうじゃないかと思って大人しくしていたら、お尻を撫ぜられ、実験準備室に誘われた。

 

キスしようと近づいた彼に、僕は大袈裟なくらい大きな悲鳴をあげてみせた。

 

彼はそれ以上のことは諦め、以来、僕に訴えられるのを恐れて、怯えた目で僕を見るようになった。

 

それでも、僕に拒絶されプライドを傷つけられた恨みはしつこい。

 

敢えて難しい設問を僕に投げかけてくることも、度々だった。

 

どいつもこいつも。

 

ひそひそと僕を噂する女子生徒たちの前を、足早に通り過ぎる。

 

選択教科棟に向かう途中、渡り廊下の手すりにもたれ、校庭のずっと先を眺めた。

 

初夏の日光が、じりじりと半袖の腕を焼く。

 

僕は義兄さんとどうなりたいんだろう。

 

僕の頭は、義兄さんのことで占められている。

 

昼休み終了まで15分もある。

 

外は暑すぎて、選択教室でひとり考え事にふけろうと、がらりと引き戸を開けた。

 

突然の僕の登場に、男子生徒と女子生徒が弾かれたように、身体を離した。

 

男子の方は、膝までずり落ちたスラックスを上げ、女子の方もたくし上げられたブラウスを直している。

 

僕は2人に構わず、席についた。

 

人目を盗んでヤッてたわけか...。

 

僕と義兄さんも同じようなものだ。

 

同い年同士でくっつく彼らが、子供っぽいと思った。

 

僕なんてうんと年上の、それもとても綺麗な人と繋がっているんだ。

 

僕はその人の『愛人』なんだ。

 

義兄さんの愛人...なんて素敵な響きなんだろう。

 

義兄さんを独り占めにしたいと思わないのが、僕の心の複雑なところだ。

 

僕ひとりじゃ、身に余る。

 

『愛している』

 

死ぬほど嬉しかった。

 

でも、受け止めきれない。

 

義兄さんの瞳に僕が映るのは、2人でいる時だけでいい。

 

未熟で、穢れている僕には、義兄さんの愛を丸ごと受け取る者に値しないんだ。

 

 

(つづく)

 

 

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