~ユノ33歳~
チャンミンに夢中になってはいけない理由を、俺は思いつく限り挙げて、気持ちにストップをかけようとした。
もしくは、割り切った関係性になれるよう、思考を歪めようとしてきた。
真っ直ぐ気持ちをぶつけてくるのは、「好き」が先行する若さ故の恋愛なんだ。
自身の優れた容姿と言動が、目の前の者を右往左往させられる万能感に浸っているだけなんだ。
恋をしたのか誘われたのかは分からないが、男性同士の行為の手ほどきを受け、その良さを経験し、淫らな行為に夢中になっているだけなんだ。
世間一般的に許されないことをしている背徳感と、誰にも知られてはいけない秘密とスリルを楽しんでいるだけなんだ。
そう言い聞かせてきたのに、俺の心はコントロール不能だ。
どうしようもなくチャンミンに惹かれている。
止められない。
それを認めた上で、次に俺がすべきこととは?
Bとの別れ。
それしかない。
チャンミンにもBにも申し訳ないが、不倫関係が始まってしばらくは、結婚生活を終了させる気は全くなかった。
BはB、チャンミンはチャンミン、と完全に別枠のものとして捉えていたからだ。
不倫だという認識すらなかった。
ところが、チャンミンを描き、抱き合い、熱に浮かされるように「好き」を繰り返し聞かされているうちに、そうも言っていられなくなった。
さらに、「愛している」と口にしてしまった。
チャンミンはあっけらかんと「バレなければいい」と言ったが、想いの本気度を意識してしまった以上、不倫関係は辛い、と思った。
今のまま、Bと夫婦でいられない。
チャンミンはもちろんのこと、Bに対して失礼だ。
別れの理由は、クリーンな立場でチャンミンと会う為にというより、現状の俺の立場では、B以外の誰かと恋愛するわけにはいかないのだ。
チャンミンと抱き合う前に、気持ちにブレーキをかけるべきだった。
手を出した俺が悪かった。
結果、チャンミンに脅迫まがいなことを言わせてしまった。
Bと別れることを反対するチャンミンの考えが分からない。
『僕らのことをみんなにバラします!』と叫んだチャンミンは、泣いていた。
チャンミンの言う通りにするしかない。
俺は結婚生活を続け、週に一度チャンミンと会い続ける。
内緒の逢瀬を重ね、先の見えない繋がりに、俺は神経をすり減らし、疲弊していくことになるんだろうな。
だとしても俺は、チャンミンを手放したくない。
会話の途中、仕事の電話という邪魔が入った。
じりじりしながらその通話を終えて振り返ると、着替えたチャンミンがアトリエにいた。
目も鼻先も赤くさせたチャンミンがいじらしくて、歩み寄った俺は彼の頭を引き寄せ抱いた。
「...っ義兄さん...」
俺の裸の肩が、チャンミンの熱い涙で濡れる。
興奮していたせいで、チャンミンの全身が熱を帯びていて、彼の後ろ髪も汗でしっとりと濡れていた。
「チャンミンの気持ちは分かった。
分かったよ」
チャンミンの後頭部をガシガシと撫ぜてやり、つむじに唇を押し当てた。
シャンプーの香りより、チャンミンの男くさい匂いが勝っていた。
いつの間にチャンミンの背は、俺と並ぶまでに伸びていた。
「チャンミン。
俺はお前のことを、セフレだなんて思ったことはないからな」
腕の中で、頷くチャンミンの頭がこくこくと揺れた。
ブラインドを通す光の角度が浅くなり、オレンジ色に変わっている。
そろそろ、チャンミンを家に帰さないといけない時間だし、俺自身もBが待つ部屋に戻らなければならない。
「こっちを見て」
俯いていたチャンミンの両頬を包んで、俺の方へ上向かせた。
「チャンミンが望む通りにする」
なおこぼれ落ちる涙を親指で拭い取ってやり、涙で潤った唇に自分のものを押しかぶせた。
俺の背にチャンミンの腕が回るのを確かめると、俺も腕深く彼を抱きしめた。
毒を食らわば皿まで...置かれた状況と心境に、いかにもぴったり過ぎる言葉だ。
・
Mちゃんをモデルに描いた作品が完成した。
最後のモデル料を受け取りに、Mちゃんは俺のアトリエを訪れていた。
両腕を後ろで組み、白いTシャツ、ブルーデニムといった軽装の女性が、窓辺で立っている...そんなシンプルな作品だ。
右頬を見せるように身体を傾けさせたポージングが、絵画作品では珍しいと思う。
既に買い手がついていて、こうして鑑賞できるのもあと数日だった。
Mちゃんに披露するため、制作中の作品たちは脇に寄せ、アトリエ中央に彼女の作品だけをイーゼルに掛けておいた。
俺から手渡されたモデル料が入った封筒を、Mちゃんは無造作にポケットに突っ込んだ。
チャンミンなら、受け取ったものをバッグの中に納め、ファスナーを締める所作まで丁寧だ。
キャラクターの違うチャンミンとMちゃん。
チャンミンと不倫関係に堕ちる前は、Mちゃんに対して嫉妬心を抱いていた。
同時に、真正面から受け止めてやる覚悟も立場もない俺は、チャンミンに彼女がいてくれたら助かると思っていたんだ。
さらには、行為に馴れた身体から判断したこと...俺と深い仲になる前から経験済で、今現在も、俺以外の誰かと関係を結んでいたらいい、とまで考えが及んでいた。
チャンミンとの繋がり合いは、脳ミソが痺れるほどの快感をもたらす。
過去の恋愛や、妻であるBとでは得たことのない、恐ろしいほどの快感だ。
一度はチャンミンと真剣に向き合い、彼に抱いている愛情めいたものをぶつけようと、心に決めた。
だから、チャンミンの「好きです」に応えて、「好きだ、愛している」と口にした。
ところが...。
口にした途端、以前から胸の奥でくすぶっていた疑念が姿を現わして、俺の覚悟を壊しにかかったのだ。
俺が思っていたような子じゃないのかもしれない。
純真そうな瞳と憑かれたように繰り返された「好きです」を、真に受けたら危ない、と。
俺の邪推でチャンミンを貶めることで、守りにはいった自分はなんて、狡いんだろう。
「ユノさん」
Mちゃんに呼ばれて、俺ははっと意識を現実に戻す。
最近の俺は、考え事でぼんやりとしてばかりだ。
Mちゃんは、脱色した白金の髪を背中に払いのけて言った。
「私ね。
知ってたと思うけど、ユノさんのことが好きだったんだ」
返答に困ってしまう。
Mちゃんは可愛い子だ。
10代、20代とモテなかったと謙遜しないし、講師を務めていた美術学校でも学生たちから、恋愛じみた視線を浴びることも多かった。
そういう類の視線や仕草が察せないほど、子供でも鈍感でもない。
「チャンミンとは?
付き合ってるんだろう?」
「ヤキモチ妬きましたか?」
「えっ?」
Mちゃんはニコニコ笑って、俺の肩を叩いた。
「ヤキモチ妬きましたよね?」
20そこそこの女の子にずばり言い当てられて、不意の指摘だったから俺は黙るしかない。
「...やっぱり!
ユノさん...チャンミンのこと、好きなんですね。
ユノさんに、良いこと教えてあげます。
私たち、付き合ってなんかいませんよ。
チャンミンはね、ユノさんひと筋です。
最初っからずーっと。
私はただ、チャンミンの恋の相談にのってただけです。
ユノさんはチャンミンのことが好きだし、チャンミンはユノさんのことが好きだし、私が出る幕ありません」
「......」
「奥さん、知っているんですか?」
「えっ...?」
「あたし、知ってるんです。
ユノさんとチャンミンのこと」
「!」
Mちゃんの言葉に、俺の背筋が凍る。
「恋の相談っていうのはね、チャンミンの恋のことですよ」
俺の強張った表情に気付いたMちゃんは、「私は誰にも言いませんよ。言えません」と言って、俺の腕をゆすった。
「チャンミン...本気ですよ。
チャンミンは奥さんの弟ですし、男の子だから、まさかお二人が関係してるだなんて、誰も想像つかないと思います。
それでも、見る人が見ればユノさんたちが、単なる親戚同士じゃないこと気付くと思います。
奥さんも、『変だな』って疑うようになると思います。
遊びじゃないですよね?
ユノさんがそういう人じゃないのは分かっています。
でも、チャンミン...苦しそうなんです、可哀想そうなくらい。
チャンミンの不安をやわらげてあげてください。
部外者の私がこんなこと言う資格はありませんでしたね。
生意気なこと言って、ごめんなさい」
俺は何も言えず、立ち尽くしているだけだった。
「チャンミンを描いた絵...見せて下さい」
「まだ6分ほどの出来だけれど」
そう言って俺は、壁に立てかけてあったチャンミンを描いた2枚目の絵...デニムパンツを履いた青年がこちらに横顔を見せたアクリル画...をひっくり返して見せた。
「あれ...?
裸じゃない」
Mちゃんが疑問に思ったのも当然で、彼女に一度だけ見せたことがあるのは、男娼に仕立てた例の作品だったから。
「あれは出来が悪くて、描くのを止めにしたんだ」
あの絵は俺とチャンミンだけのもの、誰にも見せられないし、見せたくない。
「...そうですか、残念」
Mちゃんは無言のまま、じぃっと食い入るように見ていた。
あまりにも長い時間そうしているから心配になって、彼女の目の前で手を振ってしまいたくなるくらいだった。
「チャンミン...綺麗...。
...ユノさん...チャンミンを大事に想っているんですね」
「...そう...かな」
「この絵は奥さんに見せない方がいいかもしれませんね。
女の勘は鋭いんですよぉ」
冗談めかして言った後、Mちゃんは、
「私を綺麗に描いてくれてありがとうございます」
深く頭を下げ、アトリエを後にしていった。
・
翌日から俺は、例のイベントに向けて出発する。
そして2週間後、チャンミンも俺を追ってやってくる。
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]