~ユノ34歳~
「そうだね。
リビングの広さ重視で選んだところだったからね。
今のところは売りに出すのか?
それとも賃貸に?」
Bが何を言いたいのか、俺は気づかない風にそう尋ねてみた。
Bにはさんざん、「ユノって鈍感ね」と呆れられていたのを、利用させてもらったのだ。
実際、制作が佳境にさしかかっている時の俺は、意識が作品世界に呑み込まれていて、Bの存在が目に入っていない時が多々あったから。
そんな俺の姿を交際中から見てきているBは、さして不満をこぼすこともなかった。
不満はこぼさないが、やはり寂しかったのだろう。
寂しさを紛らわそうと、旅行や買い物にいそしんでいたのだ。
Bの不在をいいことに、俺はチャンミンという愛人をこしらえていたわけだ。
チャンミンとのことがなくても、妻を放置していた俺は夫失格だ。
引っ越しに伴って湧いてくる、現実的で面倒なタスクを突きつけてみた。
「子供が欲しい」とはっきり言葉にされなかったことをいいことに、上気した肌を表現するには透明ガッシュを上塗りするか、それともけば立たせた筆で丹念に描き込んでいこうか、技法の探求に意識がとられているアーティストを装った。
チャンミンとの未来に向けて、慎重に事を進めていこうとした矢先、なんの準備も出来ていなかった俺は、とぼけるしかなかった。
Bは子供が欲しい、と言っている。
俺たちは夫婦だ、Bは特別なことを望んでいない、ごく当たり前のこと。
俺は迷った。
ひとまずここで、回答はあいまいにぼかしておこうか。
それとも、この場ではっきりとさせておいた方がよいのか。
...俺は子供を望んでいなかった。
この意志ははっきりと、早いうちに宣言しなければならないのだ。
「...ユノ。
とぼけてるのか、ホントに意味が分かっていないのか...」
ズルい俺は、Bの言葉が理解できない鈍感な夫を装い続ける。
「ごめんなさい」
「?」
今のBの謝罪については、意味が分からなかった。
「鈍感で絵に夢中なあなたが、浮気をするわけないわね」
「俺が?」
『浮気』の言葉に、心臓に氷が押し当てられたかのように、ぞくりとした。
Bは俺の手首を...Bから贈られたブレスレットに触れた。
「...付けてくれて...嬉しい」
ちくり、と良心が咎めた。
Bが贈ったものは失くしてしまい、俺の手首で輝くこれは買い直したものだったからだ。
本物はおそらく...そうではないかと俺が疑っている...チャンミンの手元にあるのだと思う。
「あなたはいつも疲れていて、上の空で。
夜はすぐに寝てしまうし...。
その気にならなくても仕方がないのだけど。
しょっちゅう家を空けていたのは私だったのにね」
「いや...それについては、俺が悪いんだ。
かまってやれなくて...。
Bにも息抜きが必要だ」
ブレスレットに視線を落としていたBは、顔を上げると真っ直ぐ、俺と目を合わせた。
「いい奥さんになるわ。
前にも子供が欲しい、ってあなたに言ったことがあったわね」
「ああ」
前回はペットを欲しがるような軽いノリだった証拠に、二度と話題にのぼらなかった。
気紛れで口にしてみたかっただけなんだろうと。
俺は自由に生きる都会的な夫婦であるのに安心しきっていて、チャンミンとの恋にのめりこんでいた。
Bとの夫婦関係はそのままに、妻の弟で未成年...ダメダメづくしの逢瀬のスリルが、日常生活のいいスパイスだったと、俺は認める。
今は違う。
「あの時はね、嬉しそうじゃなかったから...。
ユノったら、とても困ってた。
それでね、ああ、ユノは子供は欲しくないんだって。
もうしばらくは、夫婦二人でいたいんだって...そう解釈したの」
「......」
気まぐれだと短絡的にみなした俺は、Bの何を見てきたのか。
チャンミンと肉体関係をもつようになって以来、初めて妻と向き合った。
「...最近ね、いろんなことが虚しくなってきて。
好き勝手に暮らしてきた私が言う資格はないってのは分かってる。
でもね。
私はあなたが好きで、あなたも私が好きだったから一緒になったわけでしょう?
アーティストの妻は、ふわふわと上の空な旦那さんに不満を持ったらいけないって。
覚悟はしていたけれど...やっぱり、寂しいの」
「......」
「私、怖いのよ。
私たちが夫婦でいる意味はあるのかしら、って。
あなたが遠いのよ」
Bの言葉に俺は同意していた...その通りだと。
「不安だから、安心したいから、寂しいから
...子供が欲しいのか?」
俺のとぼけたフリもここまでだった。
「...そうね」
はっきりと認めるところ...自身の欲求に正直でいる...がBの美点であり、彼女に惹かれた理由のひとつだった。
子供が欲しい理由が、自身の不安を消すための手段だと知ってホッとした。
俺は狡くて、醜い男だ。
この結婚を解消する道を邪魔するものを、排除していく。
チャンミンに切ってみせた期限1年間。
チャンミンよりも、特にBが受ける傷を最小限で済ませられるよう、焦らず関門を越えていかないと。
「よく考えた方がいいんじゃないか?」
「よく考えているわ」
俺は見つけてしまった。
Bの瞳...チャンミンにそっくりな眼に、真剣さをたたえていることを。
アトリエでチャンミンと抱き合い、自宅に帰ると彼の姉がいる。
いつしかBを抱くことに、気が重くなってきた。
Bからチャンミンの面影を見てしまい混乱することに、疲れてきた。
「ユノ。
私に飽きたの?
愛していないの?」
「...愛しているよ」
「ユノの答えを教えて?
子供が欲しい。
ユノと私の子供が欲しいの」
「......」
「ユノ?
どう思う?」
「...俺は。
子供は欲しくない」
(つづく)
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