義弟(73)

 

~ユノ34歳~

 

「そうだね。

リビングの広さ重視で選んだところだったからね。

今のところは売りに出すのか?

それとも賃貸に?」

 

Bが何を言いたいのか、俺は気づかない風にそう尋ねてみた。

 

Bにはさんざん、「ユノって鈍感ね」と呆れられていたのを、利用させてもらったのだ。

 

実際、制作が佳境にさしかかっている時の俺は、意識が作品世界に呑み込まれていて、Bの存在が目に入っていない時が多々あったから。

 

そんな俺の姿を交際中から見てきているBは、さして不満をこぼすこともなかった。

 

不満はこぼさないが、やはり寂しかったのだろう。

 

寂しさを紛らわそうと、旅行や買い物にいそしんでいたのだ。

 

Bの不在をいいことに、俺はチャンミンという愛人をこしらえていたわけだ。

 

チャンミンとのことがなくても、妻を放置していた俺は夫失格だ。

 

引っ越しに伴って湧いてくる、現実的で面倒なタスクを突きつけてみた。

 

「子供が欲しい」とはっきり言葉にされなかったことをいいことに、上気した肌を表現するには透明ガッシュを上塗りするか、それともけば立たせた筆で丹念に描き込んでいこうか、技法の探求に意識がとられているアーティストを装った。

 

チャンミンとの未来に向けて、慎重に事を進めていこうとした矢先、なんの準備も出来ていなかった俺は、とぼけるしかなかった。

 

Bは子供が欲しい、と言っている。

 

俺たちは夫婦だ、Bは特別なことを望んでいない、ごく当たり前のこと。

 

俺は迷った。

 

ひとまずここで、回答はあいまいにぼかしておこうか。

 

それとも、この場ではっきりとさせておいた方がよいのか。

 

...俺は子供を望んでいなかった。

 

この意志ははっきりと、早いうちに宣言しなければならないのだ。

 

「...ユノ。

とぼけてるのか、ホントに意味が分かっていないのか...」

 

ズルい俺は、Bの言葉が理解できない鈍感な夫を装い続ける。

 

「ごめんなさい」

 

「?」

 

今のBの謝罪については、意味が分からなかった。

 

「鈍感で絵に夢中なあなたが、浮気をするわけないわね」

 

「俺が?」

 

『浮気』の言葉に、心臓に氷が押し当てられたかのように、ぞくりとした。

 

Bは俺の手首を...Bから贈られたブレスレットに触れた。

 

「...付けてくれて...嬉しい」

 

ちくり、と良心が咎めた。

 

Bが贈ったものは失くしてしまい、俺の手首で輝くこれは買い直したものだったからだ。

 

本物はおそらく...そうではないかと俺が疑っている...チャンミンの手元にあるのだと思う。

 

「あなたはいつも疲れていて、上の空で。

夜はすぐに寝てしまうし...。

その気にならなくても仕方がないのだけど。

しょっちゅう家を空けていたのは私だったのにね」

 

「いや...それについては、俺が悪いんだ。

かまってやれなくて...。

Bにも息抜きが必要だ」

 

ブレスレットに視線を落としていたBは、顔を上げると真っ直ぐ、俺と目を合わせた。

 

「いい奥さんになるわ。

前にも子供が欲しい、ってあなたに言ったことがあったわね」

 

「ああ」

 

前回はペットを欲しがるような軽いノリだった証拠に、二度と話題にのぼらなかった。

 

気紛れで口にしてみたかっただけなんだろうと。

 

俺は自由に生きる都会的な夫婦であるのに安心しきっていて、チャンミンとの恋にのめりこんでいた。

 

Bとの夫婦関係はそのままに、妻の弟で未成年...ダメダメづくしの逢瀬のスリルが、日常生活のいいスパイスだったと、俺は認める。

 

今は違う。

 

「あの時はね、嬉しそうじゃなかったから...。

ユノったら、とても困ってた。

それでね、ああ、ユノは子供は欲しくないんだって。

もうしばらくは、夫婦二人でいたいんだって...そう解釈したの」

 

「......」

 

気まぐれだと短絡的にみなした俺は、Bの何を見てきたのか。

 

チャンミンと肉体関係をもつようになって以来、初めて妻と向き合った。

 

「...最近ね、いろんなことが虚しくなってきて。

好き勝手に暮らしてきた私が言う資格はないってのは分かってる。

でもね。

私はあなたが好きで、あなたも私が好きだったから一緒になったわけでしょう?

アーティストの妻は、ふわふわと上の空な旦那さんに不満を持ったらいけないって。

覚悟はしていたけれど...やっぱり、寂しいの」

 

「......」

 

「私、怖いのよ。

私たちが夫婦でいる意味はあるのかしら、って。

あなたが遠いのよ」

 

Bの言葉に俺は同意していた...その通りだと。

 

「不安だから、安心したいから、寂しいから

...子供が欲しいのか?」

 

俺のとぼけたフリもここまでだった。

 

「...そうね」

 

はっきりと認めるところ...自身の欲求に正直でいる...がBの美点であり、彼女に惹かれた理由のひとつだった。

 

子供が欲しい理由が、自身の不安を消すための手段だと知ってホッとした。

 

俺は狡くて、醜い男だ。

 

この結婚を解消する道を邪魔するものを、排除していく。

 

チャンミンに切ってみせた期限1年間。

 

チャンミンよりも、特にBが受ける傷を最小限で済ませられるよう、焦らず関門を越えていかないと。

 

「よく考えた方がいいんじゃないか?」

 

「よく考えているわ」

 

俺は見つけてしまった。

 

Bの瞳...チャンミンにそっくりな眼に、真剣さをたたえていることを。

 

アトリエでチャンミンと抱き合い、自宅に帰ると彼の姉がいる。

 

いつしかBを抱くことに、気が重くなってきた。

 

Bからチャンミンの面影を見てしまい混乱することに、疲れてきた。

 

「ユノ。

私に飽きたの?

愛していないの?」

 

「...愛しているよ」

 

「ユノの答えを教えて?

子供が欲しい。

ユノと私の子供が欲しいの」

 

「......」

 

「ユノ?

どう思う?」

 

 

「...俺は。

子供は欲しくない」

 

 

(つづく)

 

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