~チャンミン17歳~
ベッドにうつ伏せになった僕は、掛布団のストライプ柄を睨んでいた。
これほどまでに大好きになっていたなんて。
好きになり過ぎて、義兄さんの言葉や仕草の全部に、僕は容易に揺さぶられる。
義兄さんの全部を感じとろうと、全身のセンサーの目盛りは常に最大だ。
過去の恋愛と比較したくてもそれはできない。
だって、義兄さんが初めてだったから。
恋ってワクワクするけど、苦しいものなんだと知った。
不安に押しつぶされそうになったり、泣いたり、責めたり...笑ったり...目まぐるしい。
激しいアップダウンにへとへとになってリタイヤしたくても、それが出来ない。
寝返りをうち、真っ暗の室内で灯る天井の常夜灯を見上げた。
「......」
家族たちが寝静まった真夜中。
住宅街の夜は静かだ。
暗闇に幸せや喜びの光がぽつんぽつんとあって、それはとても頼りない瞬きだ。
その光を頼りに、障害物にすねをぶつけたり転んだりしながら、僕は前進する。
高校生の僕には、「恋愛とは何ぞや?」を悟るには経験値が乏しすぎる。
同級生や後輩、先輩...せいぜい、身近なところで彼氏彼女を作って恋愛ごっこ。
僕は大人で凄い人と恋愛をしている。
自分が誇らしかった。
自身の容貌を鼻にかけて、周りを小馬鹿にしていたのは、気が小さい故に臆病さを隠すためだったんだ。
今の僕は違う。
同級生も教諭も両親も、僕の視界から消えていた。
僕の世界を占めているのは義兄さんだけ。
僕には義兄さんしかいない...。
自分の中に1本、義兄さんという太く確かな頼もしい柱ができた。
・
僕の手は前に及ぶ。
お風呂のお湯がしみて痛むそこは、触れるのが辛かった。
義兄さんと比べて僕は若い。
どろりと手を汚したものを、ティッシュペーパーで拭き取りながら思った。
無限に湧いてくるこれを、僕は持て余している。
~ユノ34歳~
Bを乗せた車は自宅へと向かっていた。
Bは無言で、眠ってしまったのかと助手席を横目でうかがうと、彼女の視線はサイドウィンドウの向こうにあった。
かと思うと、思い立ったかのように旅先の出来事を語り出す。
「...それでね、値切ったんだけど頑固でね、譲らないのよ。
話にならなくて、お店を出ようとしたら、お店の主人は追いかけてきたの」
「へぇ」
「ユノのお土産はいつも通り、免税店のもので...ごめんなさい」
「いいさ」
Bの話に相づちをうち、笑いを挟んだ。
俺への土産は、B気に入りの高級ブランドの財布だった。
それから、「お揃いにしたから」とついで買いしたスマホカバーは、俺の機種には装着できないものだった。
買い替えたことをBには話していなかったから、仕方がない。
前のスマホは、チャンミンが壊してしまった。
アトリエで絡み合っていたある日、俺の動きに耐えかねて逃れたチャンミンが、床に転がっていたそれの上にまとも落下したのだ。
蜘蛛の巣模様のヒビがはしった無残なそれに、怒るどころか大笑いしたのだ。
まるでサイズの合わないケースと端末に、俺とBとの間に齟齬が現れているようで、なぜだか安心した。
Bから離れる理由がひとつ増えたと、俺は密かに喜んだのだった。
申し訳ないと、妻へと向ける懺悔の気持ちを持ってはいけない。
これからの俺はどこまでも、冷酷であるべきなのだ。
・
チャンミンの下校時間に合わせて、彼が通う学校の正門前に車を停めた。
俺もチャンミンも男だ。
加えて親戚同士で、特に不自然な状況じゃない。
週末に会う約束をしていたが、その日まで待ちきれなかったのだ。
イベントから既に一か月が経っていた。
多忙を極めていたせいで、ドライブの約束を3度も延期していた。
絵画の価格が跳ね上がり、会期中は猶予してもらっていた仕事に追われていた。
副業のウェイトが高い現在の状況を、チャンミンの為にも少しずつ逆転させてゆきたかったのだ。
X氏との対峙も控えている。
引き受けている依頼を、ひとつひとつ片付けてゆく。
ひとつひとつ、身軽になっていく。
・
10代の顔は、その者本来の骨格は薄い脂肪で覆われ、表情をつくる筋肉も柔らかい。
子供時代から大人への移行期、わずか1、2年間しか見られないの貴重な時。
今のチャンミンは、既に大人の顔になりつつある。
15歳のチャンミンと出逢ったばかりの俺だったら、そのことを寂しく惜しんでいただろう。
作品制作のインスピレーションを与えてくれる対象物として、チャンミンを見ていたのだから。
今の俺は、一刻も早くチャンミンには大人になってもらいたかった。
・
懐かしいな。
正門から吐き出される、制服姿の若者たちを眺めていた。
えんじ色のネクタイに真っ白なシャツがまぶしい。
30を過ぎた俺には、高校生の彼らは異世界の生き物だ。
彼らが何を考え、何が彼らの中で流行っているのか、俺には分からない。
未来しか見えていない頃。
俺自身の10代と比較するたび、ぞっとするのだ。
何度も何度も、俺を苦しめるのだ。
チャンミンは17歳だと、俺と17年も年が離れていることを。
彼らの若さが眩しすぎて、俺はサングラスをかけた。
チャンミン!
二人組だったりグループを作ってそぞろ歩く彼らと距離を置いて、ひとりで歩いていた。
上の空な無表情だった。
前を歩く学生たちの間をぬって、足早に前に出た。
俺に気付かず行ってしまいそうで、呼び止めようと車を降りかけた時。
勢いよくチャンミンが振り向いた。
チャンミンは迷う間もなく、こちらに駆けてきた。
予定外の遭遇に目を丸くするのはチャンミンの方だったが、今のは俺の方が目を見開いていた。
シャツの中で泳ぐほど細身の半身と、子ども子供した後頭部を見せていたのに、振り向き、俺の姿を認めた時のチャンミンときたら...。
恋人の顔をしていた。
年齢差など関係ないのだ。
時おり子供っぽい言動を見せるけれど、抱き合いほほ笑み合う時は年齢という概念は消えている。
俺は俺で、チャンミンはチャンミンだ。
15歳のチャンミンと出逢った時から、彼の年齢は最初から関係なかった。
俺も自身の年齢を忘れた。
この発見が、俺の罪悪感を薄めてくれる。
「...義兄さん。
お久しぶりです」
助手席に座ってすぐ、チャンミンは汗で光るうなじをハンカチで拭った。
エアコンの風量を最強にすると、車を出した。
「会いたかったです」
「ああ」
どこに行こうか全く、考えていなかった。
会いたかったのだ。
それだけだ。
(つづく)
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