ユノが僕に別れを告げようとしている。
「嫌だ...。
僕は君から離れられない」
「チャンミン...」
ユノの顔が全然見えなかったけど、激しく首を横に振る僕を、哀しそうな、憐れむような表情で見ているのだろう。
「僕は納得なんかしないから!
僕を捕まえたのはユノ、君の方じゃないか!?
僕が美味しそうだからって。
僕を無理やり引っ張ってきておいて、今さら忘れろって...。
都合がよすぎるよ!」
「チャンミン...」
「どうせなら、僕を全部食べてしまえよ!
僕が美味しそうだったんだろう?
食べてしまいたいって言ってただろう?
僕はユノのことが好きになったんだ」
ここまでの激情を誰かにぶつけたことは初めてだった。
ユノを失ったら、死んでしまうとまで思った。
ここまで切迫した気持ちにかられる理由が、僕にも分からない。
パニックだった。
今のユノからは、あの甘い香りはしない。
「それじゃあ」
ユノの冷たい手の平が、僕の頬を包んだ。
「チャンミンの方から、離れていってもらうしかないなぁ」
「んっ」
ユノに唇を塞がれ、僕らは水中に沈んだ。
カエルの鳴き声が消え、ごーっという音に包まれた。
「んっ...!」
僕の口からこぼれる泡がごぼごぼと音を立てる。
僕の両頬は鋼のようなユノの手に挟み込まれている。
息が苦しい。
「ぷはっ!」
首を激しく振ってユノの両手から逃れて、水面に顔を出す。
僕の肺は大量の空気を必要としていた。
肩を大きく上下させて、息を吸って吐いた。
「はあはあ...」
呼吸を整えながら、周囲を見回していた。
「ユノ...?」
ユノがいない。
月明かりに照らされた川面が白く揺らめいていた。
ひたひたと僕の胸を叩く音だけが妙に大きく感じられる。
「ユノ?」
川岸に目をこらしても、動くものはいない。
両手を振り回しても、手に触れるものは何もない。
「ユノ!」
潜ってみたけれど、もっと暗くて何も見えない。
酸素を求めて川面へ顔を出し、再び潜る。
何度も繰り返した。
ここには、いないのか?
すねや爪先を川石に何度もぶつけながら、川岸へ戻ってみたが、いない。
あそこに沈んでいるのか?
パシャパシャと水を蹴散らし、元の場所へ向かった。
水深が一気に深くなって、胸の高さまで沈んだとき、膝にとんと、柔らかいものがぶつかった。
「ユノ!」
水底に沈む身体を引きずり上げた。
「ユノ!」
氷のように冷たい頬を叩いた。
ユノの口元に耳を寄せた。
呼吸の気配が何もしない。
沈んでいたのは、どれくらいの時間だった?
5分か?
10分?
もっとか?
耳の下に指をあてる。
脈動が一切感じられない。
「嘘だろ...!」
早く水から出て、心肺蘇生を施さないと。
ユノを肩に担ぎあげようとしたとき、僕の二の腕がギュッとつかまれた。
「!」
月明かりがユノの白い顔を照らして、ユノの瞳が赤く光った。
「どう?
怖いだろう?」
ユノの紅い唇がにたり、と歪んだ。
僕は気を失った。
~ユノ~
全ては俺が全部、悪い。
チャンミンがあそこまで、のめりこむとは想像もしていなかった。
軽い気持ちのはずだった。
性に未熟なあの子を夢中にさせてから、目的を果たす、はずだった。
俺は元来、冷血な性質の持ち主。
利己的で冷酷な言葉も嘘も平気で吐ける。
目的を果たすまでは、残酷さは封印して優しい言葉を、吹き込む。
何も知らない子。
俺の身体に夢中になってしまって...可哀そうに。
この先、どうなるのかも知らないで。
堅く勃ちあがった彼の先端に吸い付くと、瞬時に反応して上ずった喘ぎ声をたてる。
俺の下で上で、腰を揺らして恍惚の表情を浮かべるチャンミンを見て、ほくそ笑んでいた。
怯えて恐怖の香りを発散させたかと思うと、俺の放つ香りに我を忘れたり。
俺の口の中で彼の高まりがどくどくと大きく脈打つのを感じて、この子は温かい魂の持ち主であることを思い出させる。
あの時の子供がチャンミンだったとは、橋の欄干で告白されるまで気付かなかった。
当時は顔をじっくりと見る余裕がなかったから。
チャンミンの顔を汚す真っ赤な血に、顔を背けていたから。
あの子を見つめると、真っ直ぐな眼差しが返ってくる。
動揺したのを悟られまいと、俺は目力をこめて見つめ返した。
耳を当てなくても、皮膚の下でどくどくと温かい体液が全身を巡る音が聴こえる。
快楽によってゆがんだ唇から漏れるかすれた声。
潤んだ瞳は切なげで、必死で俺を求めている。
何を求めている?
俺から何を引き出そうとしている?
あの時の、チャンミンの手探りのような愛撫は優しかった。
ゆるゆるとした愛撫は、ゆっくりと俺を高めてくれた。
ことの最中は冷静でいるはずの俺が、身体の芯に火がついた。
繋がる身体に夢中になり、のしかかった身体に抵抗できなかった。
ウエストを引き寄せられ、うねる中に飲み込まれ、締め上げられる度、目の前が真っ白になった。
耳に吹き込まれたのは、チャンミンの温かく湿った息と、「好きだ」の言葉。
俺にはなくて、チャンミンにはある「心」って、こういうものなのか。
チャンミンの「好きだ」の言葉にたじろいだ。
困惑する。
密着してこすれ合う肌から伝わるチャンミンの体温は、熱くて火傷しそうだった。
気付けば俺は、これまで出したことのない呻き声を上げていた。
愉楽に歪む顔を見られたくなくて顔を背けても、顎をつかんで視線を合わせてくる。
怖気付いたかと思えば、心中に湧いた疑問に蓋をして取りすがって来る。
ここまでは思惑通りだったが、目がいけない。
行き止まりに追い詰め、恐怖におののく姿を楽しむはずだったのが、いつしか俺の方が追い詰められていた。
立ち上がった途端、眩暈に襲われて膝から崩れ落ちた。
こぶしが小刻みに震えている。
川で失神したチャンミンを、ここまで運ぶのがやっとだった。
この数日、チャンミンにかまけていたら、このザマだ。
チャンミンに付きまとわれるのは、今の俺にとって邪魔でしかない。
苦労して見つけた住まいを離れるか、骨の髄まで恐怖で凍り付かせて、追い払うか。
遊びのつもりが、深みにはまった。
チャンミンを傷つけたくない。
マットレスに横たえたチャンミンを見下ろした。
~チャンミン~
僕の部屋に、大きな箱が届けられた。
脚を折り曲げれば僕の身体が収まるくらいの巨大な箱だ。
まるで棺のようだった。
何が入っているのか、何故だか分かっていた。
包装紙を乱暴に破る。
幾重にもかけられた梱包紐に苛立ち、厳重に貼られたガムテープをはがす。
勢いよく引いたカッターナイフが、勢い余って指を切った。
ぷくりと膨らんだ血を口に含み、急く気持ちを整えるために深呼吸をした。
蓋を開ける手が震えていた。
人形が収められていた。
斜めに流した黒髪の下で、扇形にまつ毛を伏せた小さな顔。
陶器のような、生気に欠けた肌。
言葉で言い尽くせないほどに美しい人。
人形のようなユノが収まっていた。
箱の中に腕を差し入れて、ユノを抱き起す。
閉じられた瞼がぱちりと開いた。
抱き起すたび、くるくると目の色が変わる人形のように、ユノの瞳も墨色だったり、群青色だったりするんだった。
僕は絶句する。
どこにも視点が結ばれていないその瞳に、色がなかった。
1対の冷たく透明な瞳は、僕の魂を吸い込みそうに底なしに深くて、どれだけ覗き込もうと、その深淵には感情の揺らぎが一切なかった。
僕は辺りを見回した。
僕の指先からこぼれた血が黒い。
そこで初めて僕は、モノクロの世界にいることに気付いた。
白と灰色、黒色の景色がにじんでいき、目を開けているのか閉じているのか分からなくなった。
意識がふわりと浮上していく。
夢だったのか。
身体の感覚が、質量を取り戻した。
ここは...。
目だけを動かして、周囲を見回す。
見上げると、太い鉄骨の梁、外の光を透かしている波板トタン。
ユノの廃工場だ。
僕は、真っ白なマットレスの上にいた。
濡れたデニムパンツが脚に張り付いて気持ち悪い。
辺りは薄暗く、夜明けなのか日暮れなのか。
怖気だった記憶が僕の心をかすった。
夜の谷川での出来事だ。
水中に沈んだユノは、呼吸が止まり、脈も感じられなかった。
それなのに、ぱちりと目を開けた。
「怖いだろう?」って。
不思議なことに、恐怖は感じなかった。
ただショックが大きかっただけだ。
僕の予感が的中してしまった、と。
(つづく)