客をベッドにいざなう前に必ず、口にする台詞。
「この部屋には防犯カメラがあります」
僕に悪さをしようと思っても無駄ですよ、と言外に警告しておくのだ。
いろいろな客がいるからね。
ユノはふっと口元に笑いを浮かべただけで、部屋の中央に鎮座したベッドへ直行した。
ユノという客は、青ざめてやつれた感じがするのに、態度だけは余裕がある。
僕は部屋の照明を落として、フットライトだけにする。
「さすがですね。
いいマットレスを使っているね」
ぽんぽんとお尻を弾ませるユノの子供っぽい仕草に、僕の口元にも笑みが浮かぶ。
スウェットの上下かなぁ、と予想していたから、ピンク地にグレーのストライプ柄のパジャマは意外で、ユノの白い肌によく似合っていた。
横たわったユノの隣に、僕も身体を滑り込ませる。
客には何も質問しない。
僕は相づちを打つだけ。
天日干しした枕からは、お陽さまの匂いがする。
身体のこわばりが解け、ほっこりとくつろげて眠りを誘う匂い。
サイドテーブルに置いた加湿器から、ハーブの香りのするミストがしゅわしゅわと噴き出ている。
僕らは枕に後頭部を預け、揃って天井を見上げていた。
「チャンミン」
「はい」
高いのとも低いのともどちらとも言えない、不思議な声音だ。
「この仕事は、長いの?」
「まだ数年くらいです」
「始めたきっかけは?」
お決まりの質問だ。
そのために用意している回答は、「稼げます、沢山」だ。
でも今夜の客、ユノには本当のことを言ってもいいかなと、なぜか思った。
「寂しがり屋なんです。
一人で眠るのが寂しくて...」
「それで、『添い寝屋』に?」
「そんなところです。
赤の他人であっても、隣に誰かがいてくれると安心して眠れるのです」
「添い寝屋が客そっちのけで寝ちゃうのか」
「はい」
「恋人は?
こんな仕事してて大丈夫なの?
女の客もいるだろうに?」
「いません。
僕はその...そっち方面で満足させてあげられないのです」
こんな僕の秘密まで、差し出してしまうなんて。
「そっか...」
頭はそのままに視線だけを横に向けたら、ユノの顔が間近にあってドキリとした。
ぎりぎりまで落とした照明の元であっても、わずかな光を集めたユノの眼が、瞬きのない光を放っていた。
ユノは黙ってしまった。
僕は掛け布団から出した手を滑らして、生地のたてるさらさら布擦れの音に耳をすましていた。
「抱いてもいいか?」
「え!?」
ユノの言葉に、僕はばっと半身を起こす。
「あの、僕はお客とは寝ない主義なんです。
寝るっていうのは...その...」
「セックスのことだろ?
ははは、安心して。
そういう意味じゃないよ。
後ろから抱きついていいか、って言う意味」
「ああ...なんだ」
ユノは余裕たっぷりな微笑みを浮かべて、動揺する僕をじっと見つめている。
「安心した?
それとも、残念、って思った?」
「え...えっと...」
今日の客は...ユノは...僕の調子を狂わせる。
ユノのペースにのせらせそうだった。
「追加料金を払えば、触ってもいいのか?」
そう言えば、いつのまにか敬語じゃなくなっていた。
「触るのは構いませんけど...つまらないですよ。
反応しませんから」
僕はシーツと掛け布団の間に、再び横たわる。
「じゃあ遠慮なく」
そう言ってユノは、横向きに寝た僕に沿うように身体を密着させてきた。
添い寝屋の仕事は、客との肉体的な接触を厭わずに受け入れられる覚悟が、肝心要なのだ。
鼻が曲がりそうに口が臭い者でも、醜い容姿の者でも、老若男女問わず。
だけど、もの凄い美人だったりする日は、「ラッキー」と思うけど、僕の場合はその程度。
僕の肩に押し付けられた美しい寝顔に見惚れる時もあるにはある。
・
僕の中には、「欲」がない。
腰の奥がうずく「それ」がない。
足首をもって逆さに振っても、お腹に手を突っ込んで探っても、「ない」。
醒めてる男だなぁ、と寂しく思う。
風がなくさざ波のたっていない湖面みたいに、しんと静まり返っている。
欲に汚されていないその水は怖いくらいに透明過ぎて、生き物一匹棲んでいないんだ。
そう。
楽だけど、寂しい。
かつてはあった、熱い痺れを取り戻したいなぁ、と思う今日この頃なんだ。
ユノは背後から回した腕を、僕の腹の上で組んだ。
ユノのお腹で温められた背中がポカポカする。
ユノの呼吸に合わせて上下する胸に、僕もリズムを合わせて吸って吐いた。
「チャンミンはいい匂いがするね」
「シャ、シャンプーかな...それとも、石鹸かな」
どぎまぎした僕は、どもってしまった。
「違うな...そういう類の匂いじゃない。
これは...」
「あ...」
ユノの鼻先が肌に押し当てられすうっと吸い込むから、ぶるりとそこが粟立った。
なんだろ...これ?
「チャンミンの肌の匂いかな...」
僕の髪に鼻先を埋めたまま喋るから、くすぐったいったら。
「あのっ...僕のことは放っておいて、早く寝てください」
「ははっ、悪かった。
チャンミンに添い寝してもらうんだったな。
そうだ、俺は客だった」
添い寝屋が客に動揺させられて、どうするんだ。
それにしても...背中が熱い。
なんでだろ...これ。
感覚の正体を探っていたら...。
「あぁっ!!!」
飛び起きた僕は、身体を一回転させてベッドから飛び下りた。
「触らないで下さい!」
僕が慌てたのは、ユノの手がパジャマの下に忍んできたからだ。
肘枕をしたニヤニヤ笑いのユノを睨みつけた。
『帰ってください』とドアを指させばいいことだった。
でも、そのつもりが全然なかった理由はみっつ。
ひとつ目は、ユノという客がとても綺麗な人だったから。
ユノの手の平が裸の腹に触れた時、そこから電流が流れたみたいに痺れたんだ。
その正体に興味があったのがふたつ目。
ユノは客なのに、彼のペースにすっかりのせられるなんて、悔しかった。
添い寝屋のプライドにかけて、僕のペースに戻してやりたかったのがみっつ目だ。
(つづく)
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