「チャンミン」
コンロの前に陣取って、山菜の天ぷらを揚げるチャンミンの耳元でユノは囁く。
「何?」
額に汗をかきかき、油の匂いに酔ったチャンミンは不機嫌そうだ。
「チャンミン!」
ユノは、チャンミンの袖を引っぱる。
「危ない!
火傷しちゃうじゃないか!」
「チャンミンに、相談があるんだ」
「相談?
聞いてあげるから、どうぞ」
「いや...ここではちょっと...」
隣に立つユノは、もじもじしている。
「ここでは、話せないことなんだ」
「えー?」
「お願い!
ちょっとだけ」
申し訳なさそうに手を合わせるユノを、チャンミンは放っておけない。
「おばあちゃん、ここお願い。
すぐに戻ってくるから」
祖母カツに火の番を頼むと、チャンミンは渋々ユノについて台所を離れた。
「相談ごとって何?」
チャンミンは腕を組んで、ぶっきらぼうにユノに尋ねる。
「チャンミ~ン。
そんな怖い顔をしないでよ」
忙しい中、無理やり連れてこられたチャンミンは、なかなか話し出そうとしないユノにイライラする。
「チャンミン。
近くに薬局ってある?」
「薬局?
ユノ...まさか...!
お腹が痛いの?
食べ過ぎないで、ってあれほど言ったじゃないか」
空腹だったユノは帰宅するなり、セイコが作り置いたおにぎりを5個も平らげていた。
「違うって!」
ユノはずいとチャンミンに顔を近づけた。
「念のため、チャンミンに聞くんだけど。
チャンミンって、もしかして、もしかしての話。
アレって持ってないよね?」
「アレ?」
チャンミンはきょとんとする。
「アレだよ」
「アレ?」
「そう。
アレ」
「アレじゃ分かんないよ」
「そのー、『今夜』使うもの」
「......」
「持ってないよね?」
ユノの言う『アレ』が何だかを、チャンミンは悟る。
「も、持ってるわけないだろう!」
「持ってないの!?
持ち歩いてないと駄目じゃん!」
「も、持ち歩くって!?
そんなっ!」
ユノは腕を組んで、うーんとうなって目をつむる。
「困った。
『アレ』がないと、出来ない」
「相談事って、『そのこと』?」
「うん」
「信じられないよ!
薬局って、『そのこと』?」
「うん。
忘れてきちゃって。
ずっと前から用意していたのに、うちに置いてきたんだ」
「信じられないよ!」
「100歩譲って、『アレ』がなくてもいいけどさ...。
チャンミンは、『アッチ』のものは持って来てる?」
「......」
「『アッチ』っていうのは、チューブに入ってるヤツのことだよ。
チャンミン先生のことだから、持ってるよね?」
「......」
「ひゃぁ!
チャンミン先生、さっすが!
となると、足りないのは『アレ』だけか...」
ユノは鼻にしわをよせている。
「ねえねえ」
ユノに手招きされて、チャンミンは耳を貸す。
「チャンミンのお父さんって、持ってないよね?」
「馬鹿!
ユノの馬鹿!」
チャンミンは真っ赤になって、ユノの腕をつかんで揺する。
「冗談に決まってるだろう!」
「ユノ!」
はははっと笑ったユノは、すぐに真面目な表情になってチャンミンの耳元でささやく。
「今から、調達してくるよ。
車を貸してくれないかな?」
「ユノって『そのこと』しか考えていないわけ!?」
「うん。
俺は若くて健康な男だから」
しれっと答えるユノ。
「『アレ』がないと、今夜できないんだよ?
チャンミンも困るだろう?」
チャンミンはため息をつくと、額に手をのせてしばらく天井を見上げる。
(相談事っていうから、何だろうと思ったら。
まさか、そんなことだとは...。
この子ったら、予想外なことを言って僕を慌てさせるんだから!)
「母さんの車を使ったら?
鍵はついたままだから。
薬局は、ショッピングセンターの裏にあるよ」
「オッケ」
ひゅっと口笛を吹くと、ユノはチャンミンの額にキスをした。
「すぐに戻ってくるからさ」
勝手口から外へ出たユノが、すぐに戻ってきた。
「忘れ物?」
「1箱で足りるかな?」
「ユノ!」
「冗談だって。
いくら若くても、10回は無理」
目を細めて、緩んだ口元をこぶしで隠したユノは、可笑しくてたまらないといった風だ。
「じゃあね」とひらりと手を振って、出かけたかと思ったら、また引き返してきた。
「あのさ...ずーっと、気になってたことなんだけど」
「今度は何なの?」
「チャンミンって...どっち側?
ほら、俺って、こういうの分かんないから、さ」
「そ...それは...」
「ま、いいや。
今夜にどっちか分かるよね?
俺の予想だときっと...ふふふ」
「早く行け!」
「はいはーい、チャンミン先生」
ユノはニコニコ笑って、今度こそ出掛けていったのだった。
(ユノのペースに振りまわされてる!
年下のくせに!
年下のくせに!)
(疲れた...長い一日だった)
どっと疲れが出たユノ。
いざ薬局へと勇んで出かけようとしたら、ケンタたちに見つかってしまった。
「これでお菓子を買ってあげたら、おとなしくなるから」と、ヒトミから駄賃をもらってしまったユノ。
彼らを連れて一緒に出掛ける羽目になってしまった。
目を離すとどこかへ行ってしまうケンタたちを見張りながらの、大人な買い物は困難極まった。
(『アレ』ひとつ買うのに、こんなに苦労するとは!
紙袋に入った『アレ』が気になって仕方がないケンタ君たちの気を反らせるのに、こんなに冷汗をかくとは!)
「ねえ、チャンミン」
ユノは、ドアひとつ隔てた向こうへ声をかける。
「一緒にお風呂に入ってもいい?」
シャワーの音で聞こえないのか、返事はない。
ユノは脱衣所の床に、体育座りをしていた。
大家族の入浴タイムは、分刻みだ。
順番に次々と入らないと、日が暮れてしまう。
「俺はチャンミンの次に入ります」
と、チャンミンとの関係を隠す必要がなくなったユノは、大胆になっていた。
曇りガラスの戸の向こうに、肌色がちらちらしている。
ユノは、ごくりと唾を飲み込む。
(この扉の向こうに。
チャンミンの『裸体』が!)
「一緒に入ってもいいだろう?
チャンミン、ずるいよ。
俺は全てを見せたんだよ?」
(チャンミンの次の台詞は、分かるよ。
『今夜、見せてあげるから今は我慢して!』だろ?
ふふふ)
シャワーの音が止み、湯船にジャボンと浸かる音がした。
(お!
『せっかくだから、ユノも一緒に入る?』
だろ?)
「今からそっちへ行ってもいい?
公認の仲になったことだし」
パシャパシャと湯が跳ねる音がする。
「そっちに行っちゃうよー」
ユノは、急いで服を脱ぐ。
湯船から上がるザバっという水音がした。
(おー!)
曇りガラスに映る肌色が、近づいてきた。
(強引に連れ込まれて、か!?
...タイルの上じゃ身体が痛そう。
でも、風呂場でやるなんて...エッチだねぇ)
ユノの目は輝く。
ガラガラっとドアが開く。
「おらぁ!!!!!」
「!!!!!!!!」
「さっきから何ごちゃごちゃ言ってるんだ!」
「!!!!」
「ユノ!
そこにいたんだ」
脱衣所を覗いたのはトレーナー姿のチャンミン。
「今からみんなで、ドーナツを食べるんだけど?」
浴室で怖い顔をしたゲンタと、ユノを探しにきたチャンミンとを交互に見た後、ユノはわっと膝に顔を伏せてしまった。
「...ユノ。
なに裸になってるの?」
「どうしてチャンミンは、そこにいるんだよ!」
「ユノを呼びにきたんだ。
早いもの勝ちだから、好きな味を選んだ方がいいよって」
「どうしてチャンミンは、お風呂にいないんだよ!?」
「友達から電話がかかってきたから、おじいちゃんに先に入ってもらっただけ」
(俺はゲンタさん相手に、あんなこと話してたのか?
穴があったら入りたい...)
「うっうっうっ...」
(つづく)
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