~ユノ~
俺はあるひとりの男を「商品」として買った。
ふと立ち寄ったペットショップ、たまたま目が合ってしまったショーケースの子犬を衝動的に買ってしまった...みたいなノリで。
...そんなんじゃない。
「『おうちに連れて帰って』ってこの子が目で訴えてたから買っちゃった」なんて台詞を耳にしたことがある。
...そんなんじゃない。
確かに彼は、俺の気を惹こうと、客を小馬鹿にしたジェスチャーをしてみせた(中指を立てるなんて、やることが大胆だ)
「僕を連れて帰ってくださいよ」と甘えた声ですり寄ってきたけれど、おそらくどの客にも同様のことをしてきたのだろう。
この店の『商品』である身分から脱出したくてたまらないのは、彼以外の他の『商品』たちも同じに決まっている。
彼の言葉は真剣味が欠けていると感じた。
「どうせ無理だろう」と、最初から諦めていたであろう証拠に、彼の眼は感情のこもらないしんと醒めたものだったのだ。
・
唇が重なるだけのライトなキスを交わした。
唇が離れた時、まつ毛が触れそうな距離でしばし目が合った。
彼の...チャンミンの肩を押して、より深いキスへと進もうとする彼を遠ざけた。
チャンミンは「どうして?」と、疑問符だらけの表情をしていたから、俺は彼の後頭部を撫ぜてやった。
洗いっぱなしの髪がふわふわしていて、まるで本当の犬を撫ぜてやっているような錯覚を起こす。
「俺はもう、客じゃないんだ。
お前も、『犬』じゃない。
だから、こういうことはしなくていいんだよ」
膝の上からチャンミンを下ろした。
ゆるく勃ちあがったチャンミンのものから、俺はすいと目を反らして気付かないフリをした。
俺の方も同様で、この手のプロであるチャンミンならきっと、気付いていたと思う。
チャンミンはすねた風に口を尖らせ、不服そうに俺の足元にぺたりと座った。
自分が一糸まとわぬ姿でいることに、何の抵抗もないらしい。
子供っぽい甘ったれた表情や仕草は、客を喜ばせるために身につけたものなのか否か、出会って半日も経たない俺には判断がつかない。
「お兄さんはどうやって、買い主んちを出たのですか?」
唐突にチャンミンは俺に尋ねた。
「その人はね、所有することに疲れてしまったんだよ。
その人は、俺という『身体』を買った。
でもそのうち、俺という『存在』が重荷になったんだろうな...。
それで、俺を所有することを放棄したんだ」
「難しいことを言うんですねぇ。
お兄さんは理屈っぽい人なんですねぇ。
僕の馬鹿な頭じゃ、よく分かんないです」
「ショユー、ショユー、ホーキ、ホーキ」と、チャンミンはブツブツとつぶやいている。
彼は馬鹿なんかじゃない。
馬鹿なフリをしているわけでもない。
馬鹿だと信じているだけだ。
「もしお兄さんが、野生動物の赤ちゃんを拾った時」
「俺が?」
「はい。
お兄さんが哺乳瓶でミルクをあげて育てるんです。
そして、大きくなったからってその子を山に放すんです。
...その動物は困りませんか?」
「困るだろうね」
「お兄さんも困ったんじゃないですか?
犬じゃなくなった時のことです。
『自由に生きなさい』って放り出されても、身体を売るしか能のない僕は、この先どうしたらいいんだろうと、途方にくれます」
チャンミンの話の中で、主語が俺から自分にと変わっていた。
「僕は馬鹿だから、会社勤めはできません。
丈夫なあそこだけが取り柄なんです、はははっ」
さりげなさを装って、俺の気持ちを確かめようとする。
こういう賢さがチャンミンにはあった。
「無一文で、着の身着のまま放り出すなんてしないよ。
自分のエゴを満たすために、救った挙句にそれじゃあ無責任だ。
余計に残酷だね。
衣食住が保証された『商品』でいる方が、余程マシだよなぁ」
「お兄さんは、どうしたんです?
...野良に戻ってから?
住むところもなくなっちゃったんでしょう?」
この質問も、チャンミン自身のことを尋ねたものだ。
「そのつもりで、資金は残しておいたぞ?
現金の持ち合わせはなかったから、腕時計を置いていったんだけど...。
あれなら1年は遊んで暮らせるはず...」
初耳なのか、チャンミンはきょとんとしている。
「クソじじいが!」と、吐き捨ててしまった。
あの店主は自分の懐に入れてしまったってことか。
突然の乱暴な言葉に、チャンミンは驚いていた。
「ごめん、びっくりさせてしまった」
チャンミンが何に不安がっているのか、手に取るように分かる。
だから口にしていた。
自然にするっと。
「...俺んちに好きなだけいていいよ」
みるみるうちに、チャンミンの眼がキラキラと輝いてきた。
「やった!」
ぴょんぴょんとその場を跳ねて喜んでいる。
「やったやった!」
チャンミンが『仕事』で見せるのは、男を誘う小悪魔の顔。
小悪魔の仮面を脱いだチャンミンは、子供の精神のまま身体だけ大きくなったかのようだ。
ホンモノの素の行動だとしたら...切なくなる。
俺のような殺伐とした人間であっても、守ってあげたい、可愛がってあげたい、と思ってしまうのだ。
「僕を好きなようにしていいですよ?」
俺の手がチャンミンの尻に誘導された。
「僕があげられるのは、これだけなんです」
「チャンミン...」
チャンミンのその手首をつかんで遠ざけた。
「こういうことは止めにしよう」
「もっと乱暴してもいいんですよぉ?
僕は頑丈に出来ていますから、はははっ」
チャンミンは自身の肢体が商品に値することは知っているが、それ以外にあるはずの才能には気づいていないようだ。
「自分の身体は大事にしよう。
なあんて、一度は客としてチャンミンの身体を買った俺が言うのも変な話だけどな。
無造作に尻を差し出すんじゃない。
ほら!」
俺は立ち上がり、チャンミンの裸の尻を軽く叩いた。
「いい加減、服を着ろ。
風邪をひくぞ」
「えー」と不服そうに尖らせたチャンミンの唇をつまんでやった。
「服が邪魔ならせめて下着だけは付けろ。
目のやり場に困るんだ」
「ふふふ。
お兄さんったら、さっきから僕のおちんちんばっかり見てるんだもの。
ドキドキしました」
「こら!」
チャンミンの言う通り、ついつい視線がそこに行ってしまっていた。
それはいやらしい気持ちによるものじゃない。
なぜなら、チャンミンには首から下の体毛が一切なかった。
客たちが愛でやすいよう、同時に衛生面も考慮して、全身を処理したのだろう。
...なんだかなぁ...。
拾ってきたのは初心な捨て犬じゃないのだ。
見てくれに騙されたらいけない。
子供臭い話し言葉な彼だけど、あっちの世界では曲がりなりにもプロだったわけで...。
注意深く接していないと、ある時噛みつかれる羽目になりそうだ。
だから俺は、チャンミンは馬鹿ではない、と思ったのだ。
「お兄さんは優しいんですもん...」
「優しい?
俺がか?」
言われ慣れていない言葉に、照れくさかった俺は眉を持ち上げてみせた。
「はい。
お兄さんのエッチ...優しかったです」
お祈りをするかのように手を組んで、チャンミンはうっとりとした眼を、斜め上に向けている。
「物足りなかったいう意味?」
「そんなんじゃないです!
慣れていないんです。
優しくされたら...僕、どうしたらいいか分からなくなります。
お兄さんナシじゃ生きられなくなっちゃいます」
両眉を下げて泣き出しそうに口元を歪めている。
俺を真っ直ぐに射る眼差し。
『お兄さんちに連れて行ってくださいよ』
そう言って俺にしなだれかかった、あの時の醒めたものじゃなかった。
今の言葉はチャンミンの本心、だと思った。
~チャンミン~
僕に背中を向けて横になったお兄さん。
僕はそんなお兄さんの背中を抱きしめた。
「...チャンミン...暑いから、離れて寝ろ」
お兄さんのくぐもった声。
お兄さんのベッドはふかふかで、温かい。
お兄さんちは大きくて、他にも部屋はいくつもあったけど、僕はお兄さんのベッドで一緒に眠るのを選んだ。
お兄さんは渋い顔をしてたけど。
だって、嬉しくて仕方がなかったから。
お兄さんちに居てもいいんだって。
嬉しい。
夢が叶った。
僕は幸せ者だ。
それから...。
「...ユノ」
お兄さんの名前は、『ユノ』って言うんだって。
さっき教えてもらった。
でも、僕は『お兄さん』って呼び続けるだろうなぁ。
ユノ、って呼ぶのは、なんだか恥ずかしいから。
「ユノ...」
つぶやいてみたら、お兄さんはうーんと唸って布団の中にもぐり込んでしまった。
ふふふ、可愛い。
(つづく)
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